エム・トロスト

 フランクフルトから乗り継いだ飛行機は、私が思っていたよりもずっと小さなもので、自家用ジェットとか、チャーター機とか、たとえばそれらはきっとこんなサイズなのだろうなと、私はたったひとつの手荷物を肩にかけてそれを見上げた。日本を発つときにはターミナルと飛行機は通路で繋がっていたのに、ここでは乗客はとりあえずバスに詰め込まれて外に出て、飛行機までは自分の足で歩いて行かなければならなかった。飛行機の小さな入口から伸びた簡易なタラップをかつんかつんと上っていくと、中もやっぱり狭く、そしてどこか埃っぽくて、みすぼらしさも少し感じた。それでもキャビンアテンダントさんはきちんと乗っているし、私と目が合えばハローと挨拶してくれるし、それでやっと、一応この飛行機もどこぞの航空会社に属しているのだと実感できた。私の席は三人掛けの窓際で、隣、そのまた隣にも背の高い大柄な白人の男の人がどかどかと座り込んできて、ただでさえ狭い機内、私に与えられた居場所は猫の額にも等しかった。
 じきに離陸のアナウンスとともに飛行機は動き出し、無事に浮き上がってはぐんぐん斜めに傾いていき、そのうちまっすぐになった。フランクフルトの空は快晴、雲ひとつなく、一体どこから出てきたかもわからないその青色を、私はただ何を思うわけでもなく眺めていた。空とはどうして青いのだろう。この青色は誰が、何が、どうやって運んできたものであるのだろう。そしてここは、日本の空よりもその青が深いような、そんな気がしていた。日本の空を水彩とするなら、外国の空は油彩に近い色をしている。透明なのに、はっきり、これだと主張してくる真っ青。そして時折雲が出始めて、すれ違って、ああここは空なんだと私は思い直すのだった。
 だけど、飛行機がフランクフルトからどんどん遠ざかって一時間ほどが経ち、目的地に近づいていくにつれ、なんだか前方に、真っ白でとても大きな雲がやってくるのが見えた。それは今まですれ違ってきた、うすく透けた一瞬の煙のようなものではなく、密度の高い綿のような、まさに、雲だった。飛行機はまっすぐ突っ込んでいく。白い霧と青い空が半濁した一瞬のあと、窓の外は真っ白になった。するとじきに飛行機自体が揺れ出した。右へ左へと言うよりも、空気の流れに乗ろうとしているのか、上へ下へと浮き沈みし始めたのだった。どうやら、嵐の雲に突っ込んでしまったようだ。にわかに私の隣の隣に座っていたおじさんのテンションが上がりはじめ、ドイツ語で何やらまくしたて出す。そして私の隣にいたおじさんは、顔をひきつらせて肘掛に両手を置いて踏ん張っている。私はこのふたりを見比べながら、それでも恐怖に身体が縮こまらせている。飛行機がふわりと浮いて落ちるような感覚が機内を襲うたび、ほとんどがドイツ人かオーストリア人の乗客は、まるでディズニーランドのアトラクションに乗っているかのような歓声を上げた。なんだ。そんなにお気楽な人種かドイツ人というのは。だけど隣のおじさんは踏ん張っている。しかし隣の隣のおじさんはテンションが上がって誰にともなく喋り倒している。なんだ。なんなんだドイツ人というのは。いや、オーストリア人か。もはやどっちでもいい、この機内できっとただひとりの日本人である私はこうして身体を縮こまらせて耐え忍ぶしか、できることがなかった。
 だけど、確かに怖いのに、ああこの飛行機墜ちるのかな、と思うと、踏ん張った足元がどこかから安堵の形をした感情を吸い上げてきて私を不思議な気分にさせた。墜ちるのかな、この飛行機。そうしたらこの身体は隣のおじさんたち諸ともバラバラになって、きっと原型を留めぬほどに破壊されてしまうのだろう。私の意識は一瞬でなくなり、身体は焼けて、焦げて、炎はもしかしたら私を灰になるまで燃やしきってくれるのかもしれない。そして私の骨や灰は誰ともわからぬ人の骨と一緒になって、誰かに掬い上げられることになるのかもしれない。母さんや父さんは、泣くだろうか。三度目の葬式にはさすがに飽き飽きだろうな。私は、ここで死ぬのだろうか。それとも、私が乗ってしまったばかりにこの飛行機は墜ちることになってしまったのだろうか。私を殺すために、こんなにたくさんの人も一緒に死んでしまうのだろうか。すべては、やっぱり私が死を引き連れてきてしまったのだろうか。
 私はそんなことを考えている。何故か、安らいでいる。
 だけど唐突にアナウンスが鳴って私の夢は終わり、ドイツ語のアナウンスは聞き取れなかったけれど、着陸しますと言ったような英語が聞こえたような気がした。
 それは急降下でもって行われた着陸だった。浮いて、落ちてを繰り返しているうちにいつの間にか飛行機そのものの高度は下がっていて、窓の外は真っ白な世界から抜け、オレンジ色の屋根が連なる街の姿を、足元よりもっと低い場所に見た。それは見る間に近づいてきて、広々と長く走る滑走路にどしん、と、まるで尻もちをつくように飛行機は着陸した。窓にはいくつもの水滴がくっついていて、流れていって、ついさっきまで居たのであろう空を覗き上げると見事なほどの灰色だった。やっぱり、私たちは嵐の雲に突っ込んでいって、抜け出して、そしてこの街にたどり着いたのだ。
 だけど、私たちはそのまま機内でしばらく待たされた。あまりに天気が悪すぎて、空港側の準備が整っていないらしい。その間も隣の隣にいたおじさんはずっとしゃべり続けていた。これがこの街だ、これこそこの街の天気だ! ようこそ! ようこそ! なんとなくこのおじさんが何を言っているのかわかってきた。きっとこのおじさんはこの街の人なのだ。そして、そのおじさんと私の間で、足を踏ん張っていた方のおじさんは引きつった表情が顔から取れないままほっとしていた。ように見えた。
 ようやく乗客を降ろす準備が整い、私たちは並んで降りた。そして、ここでもタラップを降りたあとは歩いて空港ターミナルまで行くことになり、そのときには雨はもう止んでいたけれど、今にもまた降らせてやるぞ、みたいな脅しがかった雲はまだ真上を占領して、私を睨んでいるような気がした。私は、大股で歩いていく他の乗客に遅れないように、少し小走りになって人の列についていった。
 無事に流れ着いてきたスーツケースをごろごろと転がしてゲートを抜けると、迎えに来ている人たちもみんな雨合羽姿かびしょ濡れ姿で、留学生を迎えに来ている感じの、若いお兄さんの持っているプラカード代わりのルーズリーフのインクは半分が滲んでいたりした。
 千沙都ちゃん、と私を呼ぶ日本語が聞こえる。ぬれねずみ軍団の中でもひときわ小柄なマリコおばさんが私へ駆け寄ってきた。マリコおばさんが手に持っていた雨合羽からはひっきりなく雨粒が滴り落ちている。
 マリコおばさんが、濡れた手で私の腕をさすった。
「よく来たわね、大変だったでしょう」
 十数時間ぶりにまともに聞いた日本語で、私は現実がここにもあることを悟った。

 マリコおばさんは街の郊外の黄色の一軒家に住んでいる。バスを降りて、ここよ、と案内されて門をくぐり、庭のような、小さな林のような細くて短い道の先に家はあった。私にあてがわれた部屋は二階の端で、もう巣立っていった息子さんの部屋だとマリコおばさんが言った。部屋を見渡すと、世界地図や地球儀なんかがそのままに置かれていたりして、旅行が好きだったのか、それとも貿易とかそういう仕事をしていたのか、そんなことがうかがわれた。
 角にひとつある窓を開けてみる。入り込んできたのは裏手の林の葉擦れがさらさらと鳴る音が大半で、車の音はずっと遠くにしか聞こえないことに、私はどこか安心する。
 何かあったら言ってねと、マリコおばさんが部屋を去っていってから、私はだらだらと荷ほどきを始めた。スーツケースいっぱいに詰め込んできた物たちを、きれいにベッドメイキングされたベッドの上や床の上に放り出していく。無心になってスーツケースの中身を空にして蓋をして、代わりに見事に物に溢れて散らかってしまった部屋を見渡して、私は顔も知らないマリコおばさんの息子さんに心の中でごめんなさいと謝った。これから私がしばらくこの部屋を使います。使わせていただきます。決して変なところは開けたりしませんから、すぐ、片付けますから。
 すぐ、出て行くかどうかはわからないけれど。
 私は私の服にまみれたベッドの上に倒れ込む。時差のせいで、私の身体は七時間余計に活動している。私の身体はとっくに深夜を迎えているのにこの世界はまだようやく夕方に差し掛かったところだ。頭がぼんやりする。時差をはやく取るには、着いてすぐに寝たらだめなんだとか、大学時代の先生が言っていたような気がする。そうやって無理にでもこっちの時間に合わせていくのだって。
 ああだけど。
 頭がぼんやりする。眠気というよりも、ただ頭の奥が重くて全身がだるさに襲われている。一度倒れ込んでしまったベッドはどこまでも安らかで、私の服の匂いもそこに混じっていることが余計に場違いな安心感を連れてくる。
 このまま放っておけば痛み出すであろう私の頭が、もう今は何も考えたくないと訴えている。
 だけど思う。私は本当にここに来てしまった。仕事も生活も、捨て置いてきてしまった。この先どうやって生きていくのかということの一切をそのまま日本に置いてきた。ここに居るあいだ、私の時間はどうなってしまうのだろう。それでも進んでいくのだろうか。


続きは本で!

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