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この小さな生涯のために-『エクス・リブリス』

昨日、映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』を観に行ってきた。感想はいつものようにtwitterで数行程度にまとめる気でいたのだが、どうもそれではツリーがものすごいことになりそうな予感がするので、場所を移してここで自由に書こうと思う。

『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』はタイトルの通り、ニューヨーク公共図書館を舞台にして、図書館が行っているイベントや図書館業務の裏の裏まで切り込んだドキュメンタリー映画だ。
まず私はこの図書館のことを、全く知らなかった。ニューヨークにも行ったことないし、図書館はそりゃあどの街にもあるだろうけど…程度で、この図書館がどんな財政基盤を持っていて、どんな業務があって、どんな課題を解決していこうとしているのか、前知識はゼロだった。しかしポスターを見れば公共の図書館とは思えない絢爛な閲覧室だったり、3時間半の長尺ドキュメンタリーにも関わらず連日満席お立ち見という情報が流れてきたり、好評のツイートだったり、じゃあ3時間半頑張ってみようかなということで、行ってきた。19時前の回だったので、終わる頃には22時半だ。果てしない。

図書館。図書館ねえ。本の貸し出し窓口やったり、本探しを手伝ってあげたり、読書会を開いたり、そんな感じのお仕事かしら。

そうではあった。それも確かに図書館の基本的な業務としてあった。しかし全然それだけに留まってはいなかった。まず冒頭、市民からの電話の問い合わせに対応する職員のシーンから始まるのだが、特定の本の貸し出し状況を答えるのはいいとして、ユニコーンの話を振られて資料を探し、中世英語を訳して質問に答えていく職員の仕事ぶりの時点でびっくりしてしまった。ユニコーン? ユニコーンの本ありますかならともかく、ユニコーン自体について電話で聞くの? そしてそれを、答えるの?
この、最初の最初のフッテージから、この図書館で働く人たちのスキルの高さがまざまざと見せつけられるのだ。

そこから映画は多様な著名人の講演の模様を「そんなに映して大丈夫?」と思うくらい贅沢に見せてくれたり、一転して職員たちによる図書館の今後の運営方針、予算確保のためにはプライオリティをどこに置くか、市とどう掛け合っていくべきか、という真剣な議論に同席することができたり、また舞台は本館から離れてそれぞれの分館(ニューヨーク公共図書館にはなんと88もの分館があるとのこと)での多様な取り組みに焦点が移り、まるでそこにお邪魔させてもらうような感覚でその様子を見ることができる。幼稚園児くらいの黒人の子供達に、大学生くらいの同じく黒人の教師がほぼマンツーマンに近い形で読み書きや計算を教えていたりする。
合間に挟まれる、閲覧室やリーディング・ルームでの市民ひとりひとりの作業の様子。表情。彼らが手元に何を置いているかは様々だ。Macbookもあればスマホもあるし、本を積み上げている人や熱心にメモを取っている人もいる。ゲームしている人もいるし、寝ている人ももちろんいる。

館長が会議の場で「教育が最優先だ」と語った通り、この図書館は市民の教育や啓蒙に心血を注いでいるように見えた。子供への読み書きももちろんだが、英語がまだ不自由な移民向けのパソコン教室、ピクチャー・アーカイヴを使った授業(このアーカイヴが過去に多くの芸術家たちを助けてきたという)、多種多様な分野のエキスパートを招いた講演会などなど、知的好奇心を満足させてくれる催し事がたくさんある。
一方で、直接的に教育と言うよりも、「生活をより豊かにする」「生活にちょっと彩りを持たせる」ような催しも多数実施している。図書館のホールを使った小規模の音楽会や、高齢者を対象にしたダンス会、読書会などなど。またさらには就職説明会など、そんなことまでやるんですか? 図書館が? と驚いてしまうようなイベントがばんばんと映し出されていくのだ。
まるで市民の生活にまつわるお困りごとや要望はなんでも一手に引き受けますと言わんばかりの風呂敷の広さだ。

そんな多くのフッテージを見せてもらううち、興味深いことが見えてくる。図書館が力を入れて取り組もうとしているところはニューヨークという街全体の課題でもあるということだ。例えば図書館が館内のインターネット環境やデジタルディバイド対策について議論するとき、土台にあるのはニューヨーク市民の3人に1人は自宅にネット環境を持たないという事実であり図書館に対してこの課題に何らか対応してほしいというニーズがあるからだ。図書館は自宅にネット回線を持たない家庭のためにルーター貸し出しなども行っている。また、数学の教育方法が変わったことで子供だけでなくその親も数学の本を求めて貸し出し数が増加する。蔵書の貸し出し率の推移から、市民が今何を求めているのかを割り出すことができる。図書館の取り組み、図書館での変化は市民生活のそのままの反映だ。図書館とは街を映す鏡であり、すなわち街に生きる人そのものなのだ。
図書館とは決して、本の倉庫という意味ではない。

ニューヨーク公共図書館は、市民に人と人との出会いの場を提供する。読書会でガルシア=マルケスの小説を語り合い、自分の考え方や感性を共有することができる。人の意見を聞くことで新たな視点も獲得できる。(その視点を否定しない心の広さもまた大事)しかし、そういう知的好奇心から生じる能動的な出会いを特に求める気がなくても、ここに行けば誰かいるかもと思えるコミュニティスペースとしての役割も果たす。人が集まり、知り合いに会い、なんとなく話し、近況を報告しあえる場、そうして人と人との繋がりが続いていく場としても図書館は存在する。スマホやパソコンがあれば欲しい情報は手に入るかもしれないけれど、それだけじゃなんとなく寂しいような、という人のための場でもある。ふらっと図書館に入り、別に知り合いがいなくても広い閲覧室の席に座り、人がいる場所に自分がいるということ自体に安心する人もいる。図書館は干渉しない、けれど決して孤立もさせない。そんな空間がひとつでも街に存在するということはどんなに心強いことだろう。

ニューヨーク公共図書館にも悩みは尽きない。毎年予算はいくら確保できるのか、前年と同じだけもらえるのか、来年はどうなるのか、市民の文化的生活を支えるために陰で頭を抱えているところもたくさんある。要望があっても予算の都合で実現できないこともある。また昨今の出版業界そのものの変化にも対応していかなくてはならない。紙書籍の貸し出し数は横ばいなのに対し電子書籍の貸し出しニーズは激増している、しかし電子書籍を増やすならライセンスをどうするか。貸し出し数や予約数で考えればベストセラー本を増やせばよろしいが、そのために目立たない本や学術書をおろそかにすると10年後に困る人が出てくるだろう。こんな議論はとても現実的でシビアだ。楽しいばかりの仕事ではない。

楽しいばかりの仕事ではなくても、私はこの映画にとても勇気をもらえた。それはこの図書館で働く人たちの毎日の真摯な仕事ぶりだけではなく、この図書館を訪れる人ひとりひとりの表情に胸を打たれたのだ。知識を求める心は時代も国も問わず、私たちに通底している。いつにあっても、どんな生活環境にあっても、文化基盤が異なっても、そして、いくつになっても、知識を求める心は死なない。私たちは生涯学び続けることができる。そして、生涯を費やしても世界すべての1ミリも把握しきることは不可能だろう。だからこそ心は躍り、走り出し、時には作業の途方もなさに疲れることもあるだろう。だけどおばあちゃんになっても、私が磨き続けるかぎり、私の感性は死なない。それは読書会に参加していた高齢者の方々の表情が教えてくれた。感性は死なないのだ。
この先の未来、書籍がすべて電子化されて、この世の資料はすべてオンラインで閲覧できるようになったとしても、図書館は何らかの形で存在するのだろう。そこに街があるなら、そこに人が住んでいるなら、知識を求める心が生きるなら。見渡す限りの本を目にする感動が世代を超えていくなら。

3時間半の長尺、そして夕方からの上映にも関わらず年配のご夫婦が多く来ていて、終映し劇場に電気が点いたときは流石にやれやれ…という疲れた空気がわずかに漂ったものの、存外楽しげにみんな帰っていくのだった。ビルを出て、腕時計を見ればもうすぐ23時。空を覆う雲は灰色に焦げ茶を混ぜたような色。湿った夜の空気。ヘッドホンから流れる音楽。自宅に積み上がっている本の山のことを思う。まだ頑張ろうと思った。知らないことは、たくさんある。

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