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蝶子、わたしが愛した彼女の物語

19歳の春に出会った蝶子はまるく広がるおさまりの良いボブカットで顔立ちにはまだ少年のようなあどけなさが残り、覗き込むように人を見る目を取り立てて大きいと思うことはなかったけれど、くるくると、あちこちよそ見をしたりすぐに興味の対象が移り変わってそのどれもに好奇心を隠さない視線は誰もを魅了した。蝶子はいつも、どこで買うのかわからないレトロな柄のシャツを着て、ノートも教科書も入らないような小さなリュックサックを背負っていた。高校を卒業したばかりの蝶子はどこにも衒いがなく、自由で大きな空の下を生きてきたのだろうと思わせるおおらかさがあった。蝶子は明るく、よく笑った。好きなことになると何時間でも私に話して聞かせた。私と蝶子は何時間でも話していられた。



蝶子は出会った時から特別だった。クラシックバレエを経て演劇を始めた彼女の身のこなしは強固な体幹に支えられてとにかくしなやかで、柔らかくて、人の目を引く動きがどんなものかを言語化することなく体で知っていた。まっすぐに飛んでいく声と舞台の上を奔放に走り回れる視野の広さ。蝶子は特別だった。踊りを鍛えた彼女が演劇に転向したのも全き自然なことだった。ただその蝶子と、この平凡な私が同い年で同じ部で学生時代を過ごしたことだけが私にとって奇妙なことだった。

蝶子は怒るかもしれないが、私は蝶子の芝居よりも何よりも、彼女が振り付けたダンスを心底好いた。私と蝶子のいた演劇部はほとんど体育会と呼んでも差し支えないほどに体を動かすエンターテイメントな舞台を得意としていて、どの舞台にも必ずダンスが入った。蝶子はバレエの経験を見込まれいつも振り付けを担当し、私は蝶子が作り上げたダンスの世界に照明のデザインをつけた。蝶子の作ったダンスのために照明を考える時間こそが、あの演劇部にいて何より楽しく幸せな時間だった。
蝶子の振り付けはこれから繰り広げられる2時間の物語をぎゅっと握りしめて握りしめて指の間から出てくる果汁まさにそれだった。凝縮された物語を、2時間かけて演劇がまとめ上げるものを蝶子は数分のダンスに落とし込んで見せた。私は蝶子の手で再構成されたその物語を見るのが何より好きだった。


「この音で彼が振り向く、それからこのフレーズが入ったらあの子がこっちに来る、手はこう、それでな、ここで、雨を降らせてほしいねやんか」


役者の動き、鳴る音楽にあちこち指をさしながらイメージを伝えてくる蝶子と並んでダンスの練習を見ている時が何より幸せだった。
蝶子の振り付けが好きだった。蝶子の振り付けは物語だった。役者に難しい動きを強いることなく、ダンスというよりむしろパフォーマンスであり演劇の一部なのだと割り切ったからこそ生み出されてくる蝶子の振り付けは蝶子によってしか為されない無二の、たった数分でも唯一無二の、なくてはならないダンスだった。

私は描いた。24色の色鉛筆とノートで何枚も何枚もデザインを描いた。蝶子の世界のために何枚でも、何色でも使った。蝶子の物語のためならどれだけでもデザインは湧き上がり、どれだけでも、あらゆることを試せるような気がしていた。蝶子の物語のためなら。



蝶子と私は、同い年だったことをまず奇跡のように思う。それから、同じ大学に入学したことも奇跡だと思う。最高の奇跡は、同じ部に入って生活の大半を彼女と過ごせたことだったと思う。

蝶子と私は、始終、朝から晩まで、入学から卒業まで、特別に仲が良かったわけではなかった。それでも不意に、人間と人間が接近するタイミングというものはあって、その接近のさなか私と蝶子はあらゆることを共有したような気がする。蝶子の恋愛と私の恋愛はほとんど同化して日々の中にあったし、蝶子は私の失恋を知り、私の失言も暴言も知り、私も蝶子の恋の終わりと始まりを垣間見て、失恋を知り、互いに失恋の苦しみを何時間でもメールしあった。舞台に立てば蝶子はあんなにも特別で輝くのに、私のアパートで夜中まで語り合って翌朝ふたりで朝マックに行く時の蝶子には、同じ蝶子なのにと思ったものだ。それも含めて蝶子は特別だった。私にとっても、誰にとっても、舞台にとっても、蝶子は特別だった。


蝶子はあっさりと部という組織に見切りをつけて外部の劇団へ飛び出していった。蝶子のことを悪く言う人間も少なくはなかった。だけど私は蝶子はそれでいいんだと思った。学生劇団なんて内輪で完結するような集団にいては蝶子はダメになってしまう。あらゆるものに関心を示し、人から人へと悪意なく移ろい、鮮烈な印象だけを残して自由に飛んでいく蝶子こそが蝶子だったのだから。



私は4年間ずっと蝶子と呼んでいたのに、蝶子は4年間ずっと私を苗字で呼んだ。

「桐谷はいいよね」とある時蝶子はふと言った。「小説とか劇作とかの文章は、歳をとればそれだけ知識も増えて、いいものが書けるようになる。でも女優はそうもいかない。やっぱり30までにどうにかならなかったらって、考えてまう」
私は、文筆する人間もまた若さに価値があるものと思い込んでいた。けれど蝶子はすらりと、私が歳をとることを肯定してくれた。私は、女優こそ経験を経てより花開いていくものと思い込んでいた。けれどまさに女優として生きると心に決めた蝶子が真逆のことをこぼしたのは、それは単純に、覚悟の大きさの差に他ならない。

だけど蝶子。今更だけど反論できる。やっぱり知識にも文章力にも盛りがあるよ、蝶子が身体の盛りを気にするように、私も、何も考えられなくなること、何も表現できなくなること、中身のない、凡庸な物語しか生み出せなくなることを憂いているよ。いつか書くことそのものを辞める日が来るかもしれないことを憂いているよ。


私がドイツに滞在していた時、何とは無しに独語でフェイスブックを更新するとすぐさまスマホが鳴って、蝶子からのLINEが飛んできたことがあった。
「私は日本語すらまともに喋れへんのに桐谷は日本語もドイツ語もちゃんとできててすごいなあ!」
あの時、いつか日本語、英語、独語の三言語を使った脚本を書くのが夢なのだと蝶子に言った。そういえば、まだ叶えられていない。だけどそういうことなんだよ、蝶子。言語だって、自覚的に使わなければ端からほころんで何もかもを忘れていくんだよ。あの日の私と今日の私は決して同じではないんだ。



蝶子、今どこにいる?
次の仕事は決まっている? 次の舞台は約束されている? あなたが立つ舞台は守られている? ねえ蝶子、世界は大変なことになっちゃったね。私は蝶子が自分で「あたしには絶対できひん」と言った就活をして今となってはつまらない会社員になって、だけどそれが功を奏して今、それなりに安定して働けているけれど、蝶子、あなたは今どこにいる?

蝶子、あなたのことをどう思っているのか、私はとても、簡易な言葉では表せない。今でも、表せない。部を飛び出していったことも、それからの活躍も、どんどん女優として人脈を広げ表現の場を広げていく姿も、海外公演まで達成したことも、あなたのどれもが眩しくて、羨ましくて、だけどそれはあなたの孤独な努力なくしては決して到達しえなかったことであることも知っているからこそ安易な嫉妬も許されない思いがして、私はあなたのことを表現するのが今でもこんなに困難だ。あなたと何時間でもやりとりしたメールの時間や、私のアパートで夜中まで話したこと、あなたの実家に泊めてもらった日のこと、あなたと私の人生が重なった地点があったことを思うと今でも勝手に、名付けようのない涙が滲むんだよ。
蝶子、今どこにいる? 元気にしている? 笑っている?
蝶子、私はあなたに、生活の心配なんてつまらないことに悩んでほしくないんだよ。蝶子の空は他の誰が持つ空よりも広大で高くて晴れ渡っていて、そこで生きてきたからこその蝶子なんだから。私は誰にも、何にも、あなたの空を奪ってほしくないんだよ。蝶子の空は、完璧なんだから。


スマホのカメラロールに残る蝶子の写真をいつまでも捨てられないままで、蝶子が私の作業のために踊ってくれたダンスの録画も、捨てられないままで。それどころかたまに見返しては、画面に映るジャージ姿のあなたの声と動きに、そこに残るあなたのあどけなさに、まだ学生でいるあなたという奇跡に、どうしてこれを捨てられるだろうと思う。

蝶子は特別だった。目に見えて特別だった。けれどこれを言ったら蝶子は怒るかもしれないが、私は彼女の振り付けを心底好いた。彼女の振り付けは物語だった。彼女のためなら何枚でも、何時間でも、何色でも費やせると思った。彼女の物語のためなら。


蝶子は女優だ。だけど私の、唯一無二の振付師だった。蝶子の振り付けを心底愛した。蝶子が再び誰かに振り付けを施すというのなら、彼女が再び踊るというのなら、今すぐ仕事を放り出して、色鉛筆とノートを持って駆けつけられるような気がする。
蝶子の両手が物語を握りしめて握りしめて、その指の隙間からこぼれ出てきた果汁。それを指ですくい上げて降り注ぐ光を思い描く時間こそを、私は蝶子自身と同じだけ愛していたのだから。


蝶子と私は、多分親友でも、友達でも、仲間でも、なかったと思う。今、どこにいるかもわからないし、知っていたところで会いたいとも思わない。だけど蝶子にまつわるあらゆることは凡庸な私に訪れた奇跡だった。奇跡以外に表し得る言葉がない。蝶子は私の奇跡だった。それだけだった。



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蝶子はもちろん本名ではない。けれどいつか彼女をモデルに小説を書けたらと思っていた時期があり、その時彼女につけた名前が「蝶子」だったから。


読んでくださってありがとうございます。いただいたお気持ちは生きるための材料に充てて大事に使います。