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20190713(Sat.)夏物語と流行予想

サイン会って、結構好きで、気が付いたらサイン入りの本が何冊か本棚にあるのだけど、もしも私が明日にでも突然死してしまった場合にはいちばん行き先に困るのもまたサイン本だと思う。私の名前が入った本はどこに売ることもできないし、二束三文にもならぬ流通サイクルからも完全にこの本たちは孤立してしまう。遺品整理にやってきた家族が私の名前がそこにあるのを見つけて少し、涙ぐんだりとかそういう事態にしかならない。それを引き取るかどうかは家族の判断に任せるところではあるが、間違いなく、私だけの本なのだ。私の名前が入ることによって、私のものとして完全に完成する。
ひとの名前とは恐ろしい。名前がなければ呪うこともできないというのはもっともなことだ。
同時に、私が死んでこの世界から跡形もなく消え去っても、私の名前が入った何かは別に私の生涯とは関係なく後に残るということは不思議なことでもある。

川上未映子『夏物語』を読んだ。本を受け取ってからサイン会までは2日しかなかったが、別の理由で偶然取っていた有給休暇1日を使ってぶっ通しで読んだ。朝から読み始めて、病院に行って中断し、場所を移して再開し、映画を観るため中断し、家に帰って少し眠ってからまた再開し、読み終えて顔を上げると日付が変わろうとしていた。脳内は目まぐるしく、私が想像した夏子の視界は見てもいないのに目に焼きつき、さっき、緑子のバイト先のいたちの話でめっちゃ笑った、その数分後に逢沢さんのボイジャーの話でめっちゃ泣いた、で、それもまた、まだまだ表面的なことであって、最後の1ページはそんな表面的な感情が全部平手を打たれて足元にバラバラと散らかるような感じで、何を思っているのか、今、私は何を思っているのか、が、言語化できないところにまで飛ばされてしまったような気がする。

なんで生きてるんだろう、というのもそうだし、なんで生まれてきたんだろう、というのもそうだ。ショーペンハウアーたちが唱えた反出生主義のあれこれはとりあえず置いといて、なんで生まれてきたんだろうというのは、根源的な問いとして、頑としてそこにあるというのは間違いない。わたしはなんで生まれてきたんだろうか。それは、生まれたところでこの世は幸せよりも不幸の方が多い、子供はすべからく望んで生まれてくるものだと思うこと自体がおかしい、それは人間がものを考えられるようになった段階、周りのことが見えるようになった段階で湧き上がってくる大人側の理屈であってそういうことではなくて、単純に、理由のない、幸不幸に関わらず、なんで今生きているんだろう、なんで生まれてきたんだろう、という問い。

私はまだ夏子の年齢にも至っていない。そして、私にはまだ、まだまだ、考えても考えても、考え足りないことがあり、その考え足りないことを、考え尽くそうとするうちに人生の方が先に終わる。
私は必ず死ぬ。必ず死ぬということだけが自明で、それは明日、あるいはこの文章を書いている最中に脳の血管が切れるかもしれない。私は必ず死ぬ。死ぬとわかっているのに、考えることだけは山ほどある。生涯かけても考え尽くせない物事を前に、私は生きて死ぬ。
ゴールのないレースになぜ、なぜ私はこのレーンに立つのか。
なんで生まれてきたんだろうという問いと、それでも人生は美しいという意見は、本当は全く別々のものとしてここにあるのではないのか。何にも、繋がっていないんじゃないのか。
それでも人生は美しいという個人の意見は前者の答えにはならないんじゃないのか。
というところまで思い至るとあらゆる表面的な感情が足元に散乱した。

私以外の人がこの本を読んで、どういう感想を持つのだろう。他人の意見を聞いてみたいと思うと同時に、私はこの本によって生じた自分の感情の一切を誰にも話したくないとも思う。ただ、だから、多くの人がこの本を読んで、それぞれが感情を持って、それぞれが黙っていればいいと思う。
私はまだこの本のことをいいとも悪いとも思えず、ずっと考えているままだ。

紀伊國屋梅田本店で、刊行記念サイン会に行ってきた。
会場がこの梅田本店だと知り、あんな狭くて常に人でごった返している店内の一体どこにサイン会を開けるスペースがあって、そのサイン会の列に並ぶ人は一体どこに収容する気でいるのか、今日の今日までずっと疑問に思っていたのだが、児童書コーナーの奥に勝手口みたいな出口があって、そこに別室みたいな空間があって、且つそこが阪急三番街(17番街かもしれない)に繋がっていることを、行ってみて初めて知った。ラビリンス、阪急。奥が深き紀伊國屋。梅田本店。
先着購入100人が対象だったけれど、一人の読者としては先着100人ってエッたった100人早く買わなくちゃって思ったけど、実際100人にサインし続けるって、果てしない。書いても書いても人が入ってくるって、怖すぎると思う。並んだ方もいちばん長い人では2時間くらいは立ちっぱなしで待つことになるし、あれは最大50人まで絞ってもよかったくらいだと思う。並んで30分ほどで見事に頭が痛くなり始め貧血手前まで踏み込みかけていた私の証言。
しかしそう思うと、私はこれからどんどん体も弱っていき2時間と立ち続けていられなくなる。いずれはサイン会にもスタンディングライブにも耐えられなくなる。

前述の通り私はまだ考えて考えて考えている途中であるため、せっかくサイン会までに読み終えた小説なのだし少しは小説の感想を言った方がよろしいだろうと思っていたはずなのに、「私な、その髪型つぎ絶対『来る』と思ってんねん!」と声をかけられてからは全てが髪型の話になってしまった。私の髪型、はやるだろうか。はやってくれたら私の美容師さんの面子も立つような気がするし、(私の美容師さんは去年の冬くらいからこの髪型は絶対次にはやると言い続けている)でもこの髪型が街ではやり始めたら私は髪型を変えるような気もする。自分に似合う髪型を探す旅もまた果てしない。目先の髪型にあれこれ悩んでいるようでは人間の生涯の問いの答えなんて出るはずがない。出ないように設計されているのだろう、そもそも。でもやっぱり、なんで生きてるんだろうなあ。

読んでくださってありがとうございます。いただいたお気持ちは生きるための材料に充てて大事に使います。