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20180506(Sun.)

ゴールデンウィークが終わろうとしている。誰にも会わない休日だった。何の予定も立てず、帰省もせず、夜中に寝て昼に起き、なにも区切られていない時間を自由に過ごした。目が覚めている大半の時間は本を読んで過ごした。春になると本が読みたくなる。会社の昼休みとか、寝る前の1時間とか、そうやって毎日どこか時間を決めてこつこつ読み進めていけばいいのに、実際わたしの周りにいる同僚や上司などはそうやっているのに、わたしはそれができない。昔はできたのかもしれない。1日の全てを使って5冊読む、か、本という形をしたものを見ること自体が嫌で数か月1文字も読まない、バイオリズムみたいな波が読書にはある。それでも基本的に読書は好きだと思いたい。
会社には、今の部署がどちらかと言えば技術系に近い分野を受け持っているからだろうが、本を読む生活をしていること自体を見下されている、ように感じる。わたしは今の部署にいてもうすぐ4年になるが、着任してすぐに同じ仕事を受け持つ先輩から趣味は何かと聞かれ、わたしは深く考えずに本を読むことと答えた。最近読んだ本を聞かれたので、ここでも深く考えずに正直に太宰の『斜陽』だと答えた。するとその答えが意外だったのか、もっと自己啓発とか恋愛本とかその種の本をイメージしていたのか、その後しばらくその先輩は何かにつけて「斜陽」という言葉で遊ぶようになった。わたしは散々にからかわれた。からかわれる、ということ自体あまり受けて来なかったので、驚いたし、恥ずかしかったし、腹が立った。むしろ、「斜陽くらい読んでないんですか?」と切り返せたらよかった。それ以来、この会社にいて、読書の習慣があるということは何の魅力にもならない、くだらないことなのだとわたしはずっと思っている。
もう一人、去年異動してきた人がいた。その人も自分の歓迎会の帰り、歩く方向が同じだったわたしに「あなたを見て、すぐに『うわっ、この人すごく本読んでそう』と思いました」と言った。またこれだとわたしはうんざりして、そうかもしれませんねとか、そういうことを適当に答えた。リップサービスのようなもので、「三島とか、谷崎とか、結構好きですよ」と言った。それからしばらくこの会話があったことはすっかり忘れた。
数か月経って、その人に「あなたに言われたので、谷崎の『痴人の愛』読んでみたんですよ。すごかったです。すごい人もいるんですね」と言われた。咄嗟に言葉が出なかった。ただ驚いてしまって、嬉しいとか、何もわからなかった。「そうですか」としか答えられなかった。
その人はもう転職してしまって、また別の、大手メーカーで働いている。

なぜ本を読むのだろう。なぜ映画を観るのだろう。なぜわたしは理系でもなく体育会系でもなく、「こう」なのだろう。
理系を突き詰めたような人間、生まれた瞬間から体育会系な人生を生きている人間に囲まれて、わたしはよく考える。なぜわたしはここにいるのだろう。なぜわたしは「こう」なのだろう。
しかしわたしはこの部署が、この会社が決して嫌いではない。むしろ、文系ばかりの、わたしと似たような趣味を持つ人間ばかりの場所へ放り込まれることの方がつらいと感じる、ような気がする。
本を読むことも、映画を観ることも、大したことではない。生活に組み込まれたものが、たまたまそれであっただけのことだ。読みたいなら読めばいいし、興味がないもの読みたくないものをただ「教養が欲しい」という漠然とした義務感のように苛まれて手を出したところできっと何も残らない。興味がないならなくていい。およそすべての事柄はあってもなくてもどちらでもいい。
わたしは谷崎作品では『卍』がいちばん好きである。

休日の間に本を読み、絵を描き、映画を観た。めちゃくちゃな姿勢で絵を描いたので今ひどく腰の左側が痛い。わたしは姿勢が悪い。ペンの持ち方も間違っているのでめちゃくちゃに指先に力がこもり、横から落ちてくる髪を何度も耳にかけながら、紙と数センチ単位まで目を近づけ、ぐるぐると紙を回しながら線を引く。大昔に、「紙を回して絵を描くのはよくない」とどこかで読んだことがあるが、紙を回さなければわたしは自分の体が回ってしまう。地図を回しながら歩くのとおそらく同じ原理であろう。そういうわけで、描いている途中で腰を捻ってしまったのだろうと思う。
映画については、『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』がたいへんに面白かった。もう1回観たいとはあまり思わないし大手を振って誰かに勧められるような作品ではないが、とにかくわたしはものすごく気に入った。
読書については久しぶりに三島由紀夫を古本屋で買ってきたり、松浦理英子氏の作品を続けて読んでみたりなどした。8冊くらい読めたかな。なかでも松田青子氏の作品がめちゃくちゃに好きだと発見できたことがいちばんの収穫だったかと思う。本屋で新しい本を次々に買い込むのもいいが、部屋の隅に積み上げられている本もいい加減手をつけるべきだ。積み上がってしまう本と買ってすぐに読める本の違いとは一体何なのだろうか。
行くあてはないが小説を書きはじめた。何がどうなるのかさっぱりわからないしここ1、2年は書き始めては投げ出しを繰り返しているため全く自信がないが、続くだけ続けてみようと思う。

部屋を片付けていると今まで買った映画のパンフレットが山のように出てきた。床に並べてみるとなかなか壮観だった。チケット代に加えてパンフレットも買っているのだから一体映画にいくらつぎ込んでいるのかぞっとする。しかし広島県尾道市にある映画資料館では過去作品のパンフレットがれっきとした資料となって保存されているわけである。ということはわたしが今持つこのささやかなコレクションもそのうち立派な資料となる可能性があるわけだ。絶対にメルカリには売ってやらんぞと決意を新たに、しかしもう収納場所がないのでAmazonの空き箱に仕舞うことにした。入り切らなかった。

明日からまた仕事だが、ある程度時間が区切られていないと生活は崩壊する一方なので、このあたりで休日を終えるのが実はいちばん良いのかもしれない。また上司への殺意だけで呼吸が成り立つ日々が始まる。

読んでくださってありがとうございます。いただいたお気持ちは生きるための材料に充てて大事に使います。