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企業は企業である限り自らがボイジャーであることを忘れてはならない(noteに思うこと#2)

この文章は10/27に公開した以下の記事についての自らの所感です。


生きる限りボイジャーであること

まず、冒頭の記事で紹介したはるさんの記事が幡野氏本人ならびにcakes編集部へ直に届き、レスポンスがあったことを心底嬉しく思う。それは突き詰めればはるさんの文章の力が多くの人の心を打ち、行動へと移させたからに他ならない。これについては私も素直によかったと思っている。

良いものは何度でもシェアをする(通知がいったらすみません)

と言うことで、冒頭の私の記事もとっとと消してしまうのがいいかと思っていたのだが、そもそも私がnote株式会社に求めていたのはこのプラットフォームで得た収益を人権研修やcakes編集部への教育に最優先で充てること、会社としての意識改善、再発防止の推進にあったはずなので、この、はるさんの記事が幡野氏本人とcakes編集部へ届くことは私にとってnote株式会社に求めるゴールではない。なので記事は消さずに今後もページの頭に置きっ放しにしておくことにした。目の上のたんこぶ的な。うぜえユーザーだなと思われようが、この事態そのものが風化しないためにも残しておくのが良いという判断である。


そもそも、企業の風土改善なり社員への啓発活動、諸々の改善活動にゴールというものは存在しない。「もうこれで十分だろう」と判断した時点でその企業の成長は止まり、また同じことが繰り返されることになるだろう。安全神話の崩壊みたいなものである。企業は企業である限り自らの風土と社員の育成に責任がある。その営みはゴールありきで考えてはならないのだ。ちなみに「『もうこれで十分だろう』とは思わずに常に立ち止まり、考え、職務を遂行すること」というのは我が社がよく言っている文句である。会社員根性、万歳。

企業に限らず、人間としての私たちもまた、自らの成長やより善い人間であろうとする営みに責任がある。それにもまたゴールはない。生涯、私は私の人生と人格に対して責任がある。自分をより善い人間へと持っていけるのは結局のところ自分しかいない。


企業も、人間も、ボイジャーのようなものである。太陽系を抜け、旅を続けるボイジャー。たとえ理想とするものに永遠に出会えなくても、一人静かに旅を続けるボイジャー。理想とするもの、目指すものに生涯たどり着けなくても、旅することを、足を止めないことを、企業も人間も、存在する限りはそれを宿命づけられているのだ。


だからnote株式会社には改めて求める。たゆまぬ企業風土改善の営み、社員教育、啓発活動、そのすべてを継続すること。noteを利用するユーザーたちからの収益は、そのためのものでもあるということを忘れないでいること。

ボイジャーは太陽系外に飛び出した今も
秒速10何キロだっけ ずっと旅を続けている

それの何がどうだというのか わからないけど急に
自分の呼吸の音に 耳澄まして確かめた

  話がしたいよ / BUMP OF CHICKEN

旅を続けて、時に立ち止まって、自らを顧みること。それからまた旅に出ること。企業は企業である限り、自らがボイジャーであることを忘れてはならない。



横からでかい声で発信すること

20世紀を生きた哲学者ハンナ・アーレントは人間の生活を「観照的生活」と「活動的生活」の二つに分け、後者をさらに「労働(labor)」「仕事(work)」「活動(action)」の三つに分類し、中でも「活動」の重要性について論を展開した。(詳しいことはwikipediaに行くか何か読んでください)

私は彼女が「政治」を「演劇」の形態と関連付けながら論を展開していくのを面白く感じ、大学卒業後から新書等で彼女の思想を独学で勉強している。独学なので、当然限界はある。何と言っても難しくて原書を開くと寝てしまう有様なのである。だから私が持つハンナに関する知識は漠然としており且つ断片的なものでしかない。


けれども今回の件で、これほど、私の中のイマジナリー・ハンナと対話することになるとは思わなかった。


明らかに問題のある記事とはいえ、私は何かを言ってもいいのか。DV被害に遭ったこともなく、全く問題なく生活してきた私に何かを言う資格はあるのか。相談者の方の知り合いというわけでもない、ただ記事を読んだだけの全くの部外者の立場から、私は何かを言ってもいいのか。正直、冒頭の記事を書くかどうかはかなり悩んだ。このままこのnoteを利用し続けても、私にとって不利益は何もないしそれ自体は悪いことでもないからだ。けれど、ここで私は愛読していたハンナの参考書の文章を思い出した。この文章はハンナが明確に示した解釈ではなく、むしろ著者の仲正昌樹氏の解釈が多分に入っているものではあるが、私はこの文章に、何度も、勇気付けられてきたことを思い出したのだ。

 無論、”現場を知っている人の声”は、個々の問題について、適切な判断をするための材料として重要である。基本的な情報が手元になかったら、事態を適切に把握し、評価することなどできない。しかし、”現場を知っている人の声”に逆らってはいけない、という風潮がどんどん強まったら(その問題に関連するかなりの専門的知識を持つ人まで含めて)傍観者は発言できないということになり、「政治」における「複数性」を維持することは難しくなる。
(中略)
 直接的には表舞台に加わらない、「観客」が存在し、様々な視点から問題を注視していることによって、「政治」に「複数性」がもたらされるのである。私個人にとっての必然性もないのに、特定の立場にコミットして、無理に積極的なアクターになろうとする必要はないし、アクターになろうとしない人を、安易に卑怯者呼ばわりするべきでもない。

ハンナは無理にアクターになる必要はないと言った。けれど直接表舞台には上がらない「観客」が存在し、様々な視点から問題を注視することで複数性がもたらされるとも語った。


私は考えた。まず、私が抱いている「怒り」のようなものは本当に自分の底から湧いて出てきているものなのか、誰かの怒りに当てられて何となくそんな気になっているだけではないのか、本当は怒ってもいないんじゃないのか、私はこの記事に対して実際のところ何を思っているのか。

本当に考えたと思う。そしてやっと私の中から出てきた結論は「謝罪文における幡野氏の自分本位なスタンスへの違和感」「そしてその記事を公開したcakesを運営するnote株式会社によるnoteというサービスを使用し続けようとする自分への違和感」だけは本物であるということと、「表舞台に加わらない観客であってもその視線は問題を多面的に見る材料になる」というイマジナリー・ハンナの言葉が私の背中を押したのだ。デカルトみたいな結論を出して、ハンナの言葉で私は決意したのだ。

結果、私が書いた文章はご認識の通り感情に任せた稚拙なものに過ぎなかったが、それでも、書いてよかったと思っている。note株式会社ならびにcakes編集部に届くが届くまいが、私のために、書いてよかったと思っている。


私はここで、声を上げなかった人を責めるつもりは一切ない。ハンナも「無理にアクターになる必要はない」と言っている。自分の問題ではないとして、どちらの立場にもコミットしなかった人は決して卑怯者ではない。

けれど思うのは、例えばDV撲滅にしても、DVに関する啓発活動にしても、諸々の差別反対活動にしても、同性婚の承認に向けた活動にしても、それらを訴える当事者の人たちはすでに日々を戦っている。DVや差別、社会の不条理と日々戦っている。戦っている上で、声を上げているのだ。それをDV当事者ではない人々やヘテロセクシャルの人々が「当事者の声こそ重要なのだ」と「遠慮」して沈黙してしまっては、当事者たちは疲弊していく一方になってしまう。ただでさえ日々を疲弊しているのに、部外者たちの沈黙によってさらに疲弊し、孤立してしまう。だから時には、いや、だからこそ、非当事者が声を上げることは重要になってくるのではないだろうか。正しい知識を身につけ、おかしいものはおかしいと、毅然とした態度で問題に向かう責任もまた、私たちにはあるのではないだろうか。

特定の立場にコミットしないこと、声を上げない人は決して卑怯ではない。けれど、横からでかい声を出して発信するのも、悪いことではないのだと私は思う。というか、冒頭の文章を書いて思った。



冒頭の記事を公開して、私はとても怖かった。公開した直後こそ感情が高ぶっていて無敵モードに入っていたけれど、そんなものは一夜にして消えた。私はとても怖かった。twitterでもぞもぞと苦言を愚痴のような形で呟くのとはわけが違う、たとえ本名ではない、匿名に近い名前であっても、kyriという名前で幡野氏を名指しで批判し、cakes編集部、note株式会社をも非難する文章を公開したことは、本当に怖かった。今でも怖い。外野の立場で何様だよとか言われることが本当に怖い。

怖いけれど、私は消さない。この記事も、冒頭の記事も、絶対に消さない。



私はこれからもここを使うだろう。自分のためにさえもならぬ内容のない日記を書き、たまにもう少し内容があるエッセイのようなものを書くためにここを使うだろう。もっと素敵なサービスがどこかから現れるときまでは。

だからnote株式会社には改めて求める。たゆまぬ企業風土改善の営み、社員教育、啓発活動、そのすべてを継続することを。noteを利用するユーザーたちからの収益は、そのためのものでもあるということを忘れないでいることを。




【補足】
私が愛読しているハンナの参考書はこれです。引用もこちらから。

そしてこれを機に、開いては寝て、開いては寝てを繰り返し挙句積み上げてほっぽらかしているこの本に今度こそ本気で挑むと決意した。


あと補足の補足になりますがBUMPの「話がしたいよ」は名曲なので。





読んでくださってありがとうございます。いただいたお気持ちは生きるための材料に充てて大事に使います。