≪道徳①≫私たちは二重生命で生きている

近年、社会問題となってきた
交通機関などでのベビーカー問題については
ブログでも2012年に一度取り上げました⇒こちら

昨年の夏は、神戸の須磨海岸周辺で、
一部海水浴客のマナーの悪さが
社会問題となりました⇒こちら

一昨年の夏は逗子海水浴場での
騒音やライブイベントなどが
社会問題となり昨年は規制されました⇒こちら

そして保育園、学校、公園などの
子どもの声も社会問題に
なってくるようになりました。

このままの流れで行けば、
道路工事などの一時的な騒音も
問題になりかねない状況になってきたかもしれません。

さて、この一連の問題については、
問題の本質はどれも同じです。

それは、私がcoachA主催の
コーポレート・コーチング・シンポジウム2006に参加したとき、
基調講演でお話してくださったのが
“場の先生”で有名な
東京大学名誉教授の清水博先生で、
極々短時間でのお話だったので
清水博先生の伝えたかった内容を
私がしっかり掴めたのかはわかりませんが、
一重生命、二重生命というお話をされました。

一重生命とは、「私は私、他人は他人」
「私は私の仕事だけをしていればよい」
「私は私の事だけを考えていればいい」

二重生命は、共存在として、「私」と「仲間」という関係で位置づける。
位置づけの場は「問いかけの場」(お互いの位置づけを共有する)

というお話でした。

私たちが小さい頃の、多くの家庭では
一家にテレビが1台しかないなど、
それを家族で共有して使わざるを得ませんでした。

ですから必然的に“肌感覚”
二重生命を感じて生きてきました。

ところが今の若い世代は
自分だけの部屋が与えられたり、
そしてその部屋には
自分だけが使えるテレビがあったりなど
二重生命を感じる生活を体験できなくなってきていると
言えるのではないでしょうか!?

そして、家もむかしは
大家族で2世代、3世代が同居していたりしましたので、
自分の子どもがたとえば小学校を卒業しても、
いずれまた孫が通うという意識があったからこそ、
またいずれお世話になる場所だからと、
その地域に住み続けていく者として
理解ある生活を送ってきました。

やはりそこには二重生命を感じる生活が
あったからでしょう。

ですから、以前は、二重生命を一々説明しなくても
肌感覚で理解していたのですが、
近年は二重生命がなかなか経験できない時代ですので
それは教えていかなければいけない問題です。

ですが、日本は二重生命について
すべて意識が無くなっているわけではありません。

たとえば、3.11のときに首都圏で
帰宅困難者が階段に座っていても
通路の真ん中は
通行者のために空けていたりというのは
二重生命を理解しているからです。

その光景の写真を見て、
中国人は「中国ではありえない・・・、
日本は凄い」という感想を持ったらしいですが、
ここら辺の意識(二重生命という意識)が
中国などには欠けているといえるのではないでしょうか!?

たとえば自国の繁栄を願うのは、
どこの国も一緒。

でも、多くの国は
自国の繁栄は願いながらも
他の国の存在も意識しているのですが、
中国は、自国の繁栄のためなら
他国なんてどうなってもいい、
そういう感じに見えませんか!?

こういう二重生命という意識の欠落が
近隣国との問題に発展してきているといえるでしょう。

しかし、笑うことはできません。

日本も二重生命という意識が欠落し始め、
中国化になってきているわけですから・・・。

そこで、たとえば、少し前にフロンガスが
オゾン層を破壊しているということで
規制がかかりました。

なぜかと言いますと、
“自分”と“環境”が
共生でつながっているからです。

こういう事例をいくつも挙げることで、
“自分”と“環境”、“自分”と“地域”、“自分”と“仲間”、
“自分”と“社会”、“自国”と“他国”という
二重生命で私たちは生きているというのを
学んでいくしかありません。

最初に挙げた須磨海岸周辺や逗子海水浴場の問題は
『人は他人に迷惑を掛けない範囲で自由である』という
福澤諭吉氏の名言などで、二重生命を意識し
周囲にも理解できる範囲の考動を心がけていれば
ここまで問題とはならなかったでしょう。

そして交通機関などでのベビーカー問題や
保育園、学校、公園などの子どもの声などは、
私たち大人も、大人になる過程の幼少のころは
周囲から大目に見てもらえて育ってきたのですから、
ある程度は寛容な態度を見せる必要があるでしょう。

インドの教えで
「お前も人に迷惑かけて生きているのだから、
人のことも許してあげなさい」という言葉があるように。

ただ、だからといって、
交通機関などでのベビーカー問題や
保育園、学校、公園などの子どもの声などについて、
誰も特権が与えられている社会ではないのですから、
たとえば交通機関内で赤ちゃんが泣き出すのは
やむを得ない現象ですが、あやすなどの努力をして、
周囲にも理解できる範囲の考動は
心がけていく必要があるといえるでしょう。

なぜなら、私たちは二重生命だからです!

こういう、国境を越えて、
人が人として生きる社会における規範とかルールとかマナーが
道徳となってきます。

道徳とは、二重生命を意識するとかシンプルなキーワードを基に、
TPOに合わせて自分に問いかけていくというのが私の認識です。

また準備が整いましたら
≪道徳②≫をアップしていきたいと考えています。

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