入社の頃

僕は1983年4月に入社した時、金子豊班に配属された。

当時の本社「制作部」には3つの班があり、橘功さん率いる「2時のワイドショー」の橘班、広田基さん率いる「11PM」の広田班、そして、「おもしろサンデー」「びっくり日本新記録」「寛美85分」「お笑いネットワーク」等、いろんな番組が属していた金子班があった。

僕は今岡大爾さんがチーフ・プロデューサーを務めている新番組「三枝の恋人ラブマッチ」にADとして配属された。

直属の上司は僕の3歳年上の松下泰紀さん。松下さんは後に「鳥人間コンテスト」のディレクターをやる事になる。

今岡さんも松下さんも既に鬼籍に入られている。

松下さんとは、よく徹夜で編集をしてものだ。ADは先輩ディレクターと行動を共にするのが当たり前の時代。男女雇用均等法が施行される前。

徹夜で、スタジオで再生するVTRを松下さんが編集。それを翌朝10時過ぎ、出勤して来た今岡さんがプレビューして、ほとんど跡形も無く、やり直しを命じられる日々が続いた。

松下さんも、「三枝の恋人ラブマッチ」でディレクターデビューしたのだから、いろいろ未熟な部分もあったのだろう。

当時、今みたいに「残業する事」に対して、会社もおおらかだった。

その後、数年して、僕は「朝の連続ドラマ」のAPになるのだが、ドラマを撮っている時の残業時間は「月に280時間」にも及んだ。

でも、ドラマが終わると、2週間位の休みを貰い、海外の辺境の地に出かけて彷徨い歩いた。

それでちゃら。会社も許してくれていたのである。

「高校生クイズ近畿大会」で、日本テレビの「アメリカ横断ウルトラクイズ」のディレクターと話をする機会があり、彼らの残業は「月330時間」に及んだという。もちろん、家にはほとんど帰れていないし、寝る時間も無かったのではないかと思う。

「三枝の恋人ラブマッチ」は3ヶ月で放送を終了。

僕は7月から「11PM」班に異動した。この時、チーフ・プロデューサーは広田基さんから豊永幸男さんに代わり、僕は豊永さんの下で「11PM」を2年間やる事になる。

ちなみに、同期入社の諏訪道彦(後に、アニメ「名探偵コナン」の生みの親になる)は「11PM」、梅田尚哉(後に、「キスイヤ」「EXテレビ」プロデューサー)は「2時のワイドショー」に配属された。

3人とも、先輩が「飲みに行くぞ‼️」と誘って来たら、必ず付いて行った。そんな時代だった。先輩の命令は「制作現場」では絶対だった。

「三枝の恋人ラブマッチ」でお世話になった今岡大爾さんとは、「朝の連続ドラマ」で再び仕事をする事になる。

あれから40年あまり、インターネットやスマホが発達して、社会は一見便利になった様に見えるが、本当にそうなんだろうか?

「あれをやってはいけない、これもやってはいけない」

そんな中で、一体どんな方法で、「夢」を持つ事が出来るのか?

一緒に仕事を共にした諸先輩方の多くは鬼籍に入られたが、彼らとした「熱い会話」の数々を僕はいつまでも忘れる事ができないだろう。

「テレビ」とは何か?「11PM」とは何か?

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