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#001 ボーダーレスな考え方

人は線引き(ボーダー)をしたがる?

最近の自分の中の課題。
この課題は、死ぬまで答えは出ないかもしれない。

なぜ人は線引きをしたがるのか。
ボーダーを引いて、こっちからは向こうは○○、ここからは○○みたいな。
ジャンル分けと言い換えても良い。

例えば、音楽。
ロック、ハードロック、メタル、クラシック、ジャズなど、確かに分野で分かれていることで整理しやすいのかもしれないけど、ロック歌手がメタルの曲を作ったら、そのアルバムはどのジャンルになるのか。

本もジャンル分けされる。
こちらも検索しやすいからなのかな、と思うが、私は単純によく読む本を近くの本棚にしたり、単純に大きさで分けたりする。

社会においては、国境、人種、学歴など考え始めると切りがない。

誤解がうまれないように、、私が考えているのは、ジャンル分け、ボーダーを引くことのの善し悪しではなく、そうなっていく過程や仕組みを分析したいということ。

安心を得るため?

線引きをすることで、自分たちの考えや場所を正解として、安心したいから?という仮定。

・自分は○○というカテゴリに属しているから安心。
・自分は○○という場所にいるから正しい。
・自分は○○というジャンルが好きだから流行に乗っている。
という安心感?

つまり白黒をつけて、自分が正しいもしくは自分が多勢である、という気持ちになれば安心を得られる?

共同体感覚からのアプローチ

アドラー心理学に共同体感覚という考えがある。
共同体感覚を完結に言うと、

人が全体の一部であること、全体とともに生きていることを実感すること

ここでいう全体がどれくらいの規模かは置いておくとして、何かしらの一部として、そこと一緒に生きていることを実感することが、人の幸せに繋がるという考え。

逆に私的感覚に捕らわれていると、自分だけの狭い世界(虚構の世界)に捕らわれている、これは他者へ幸せを与えることもできないし、他者から幸せを与えて貰うこともできない。

つまり白黒つけて、それを他者へ強制する、または、自分の考えだけに捕らわれて、人の考えに耳を貸さないというのは、自分の可能性や幸せの幅を狭めるが、共同体感覚を得れば人は幸せを実感できる。

そして共同体感覚を得るためには、一定の線引き、言い換えれば単位、カテゴリが必要になってくるということだろうか。

主観とは?

少し考え方を変えて、主観について考えてみる。

同じ事象でも人によってとらえ方は様々で、どの意見が正解とかではなく、純粋に見え方が違う。

なぜなら、自分が見たり聞いたりしているものが、他者と同じという保障は無いから。

例えば色。
青を見て青はどんな色かはその人しか分からない。
もしかすると、別の人に見えている青は自分の認識している青ではないのかもしれない。

例えば音。
絶対音感があるとしても、ドの音を聞いても人によっては、違う音程かもしれない。
もしかすると、別の人が聞いているドの音は自分の認識しているドの音程ではないのかもしれない。

自分は他者の五感を共有することはできないから、色も音も自分の感じているもの見ているもの、聞いているものと違う可能性がある。

そうなると、たとえ他人のためと考えての行動や発言でも、主観である以上、それが相手にとって絶対的に正しいとは言えない。

そんなことをすれば、極論かもしれないが、全員が自分の行いを正義と考えることができてしまう。

それが悪く働くと、自分と違う考えは悪と判断するだろう。

だから自分が絶対的に正しく正義。
それを受け入れない相手は、分かっていない悪。

そうなるとたとえ悪意がなかったとしても、争いはなくならないし、対立が生まれる。

課題の分離

アドラー心理学の課題の分離は、

まずは「これは誰の課題なのか?」を考える。そして課題の分離をする。どこまでが自分の課題で、どこからが他者の課題なのか、冷静に線引きする。

とある。

一見冷たい考え方に感じるかも知れないが、最初のフィルターに主観が入ってしまう以上、この考えは重要だと思う。

そして他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない。

つまり自分と相手の考えが違った場合、冷静に線引きをして、自分の意見を強制せず、無理に争わない。

これならば、少なくとも主観から生じる対立は減るだろう。

ボーダーレスになるには

私個人の意見としては、世界が争わない時代がくると信じている。

アドラー心理学から私が得たヒントは、今の私たちにはボーダーが必要。
なぜなら、まだ人は精神的に成熟していないから。

共同体感覚を得るために、まずは家族、身近な友人からはじめてみる。
そして主観同士の対立があったとしても、課題の分離という考えのもと、相手を否定せず、自分を否定せず、高め合う事。

いきなり全ての人とわかり合おうとするのはかなり無理がある。
だから、ボーダー、範囲が必要になってくるのだろう。

でも、人は成長できる生き物。
他の動物と違い、文字を書き、言葉を使い、歴史を学び、後世へその文化や智恵を伝えていくことができる。

だから、人が共同体感覚を求め続ければ、ボーダーの範囲がどんどん広がり、最終的にはボーダーレスになるのではないか、というのが今の自分の考え。

そうならなければ、人間って切ない生き物だよな、と。
同じ歴史を繰り返すのはやめて、一段上の高みにいければいいな。

もちろんこれが真実と証明できないし、私がこれが答えだと思い込んで、言い切ってしまえば、それこそ、独りよがりな私的感覚に捕らわれていることになる。

たまには、酒でも飲みながら、こんなことを考えてみても良いかなと思い、アウトプットしました。

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