【短編】翠雨



 聖光国(せいこうこく)に雨は降らない。
 気候の都合上、冬に雨が降りやすい傾向にあり、冷えた大地の纏う空気によって雨は雪の結晶と変えられてしまうために、雨として人々に受け止められることが少ないのだ。
 春は大陸中央、聖光国の西側に位置する山脈を越えて空風が吹き、穏やかで爽やかな天気が続く。薄青の空の下、農業を中心に人々は忙しく日常を暮らし、春の終わり、あるいは幻の夏の夜とも呼べる最後の夜に、今年も無事蓄えを得られたことを喜び祝う。澄星の儀という音の綺麗な名で定められているが、その話はさて置くとしよう。
 要するに、雨とは、心魔にとって非常に珍しい自然現象の一つを云う。
 雨に対処する生活の知恵も技術も北へ行くほど不足し、大抵の雨は皆その身に受け止めることでやり過ごす。寒さに強い性質を持つこともあって、体調を崩す心配も不要だった。
「だからと言って、ずぶ濡れになってまで外を歩かずとも良いだろう」
「あー、もう。はいはい、わかったから」
 雨粒が薄い窓ガラスを叩く音を背景に、耳を塞ぎ小言を拒むのはずぶ濡れの少年だ。弾みで、金髪から手指に散った雨の雫が、剥き出しの白手首を伝って膝に滲みを落とす。少年が瞬きをする度、室内光を反射して雨雫が宝石のように散っていく。
 金髪金目の──『神の落とし子』と称される特徴を持つ少年は、白いシャツとズボンを着て椅子に座るだけでも気品を感じさせる。粗野な、子供らしい仕草すら人目にはあたたかく、造形の醸し出す印象の強さを見せつけるようだ。
 被せるように載せられた白布すら、服飾の薄布のように見えることだろう。向かいに立つ青年は溜息を吐きながらも、少年の見せつける美を愉しんでいた。
「自分で出来るってば」
 視線を向けられる居心地の悪さに、少年が音を上げる。
「そう言って、放っておくつもりだろう。透火(トウカ)」
「どうせ乾くじゃん……」
 名を呼ばれ、反応を示す。細やかなやりとりが、少年を天上の存在でなく、地に足を着けた人間なのだと周囲に実感させる。
 拗ねた唇をもはや愛嬌の一つとしか数えない青年の目も、些か色が付きすぎているけれど、少年の愛らしさは他が認める一つの魅力であった。
「……痛いから、自分でする」
「う」
 青年の指が強張った隙を狙って、透火が身を引く。
 夜明けを視る髪色に、光の加減によっては紫にも変じる紺色の瞳と、青年の色味は透火と正反対だ。身分の高さがその色の美しさを引き立て、無自覚に植え付けられた貴族としての所作が、少年に負けずとも劣らぬ上品さを醸し出す。
 窓向こうに広がる薄明るい空の前で、彼の外見は寄り添う影のように淡く、人の目に確かに残るようだった。
「王子。こちらをどうぞ」
 扉の側に控える召使が苦笑を浮かべ、新しい白布を手に静かに歩み寄る。
 元々、このような世話は彼女たちの仕事であり、召使と身分の同じ透火を配慮する必要はない。
 自覚している不器用さを指摘され、怯んだ一瞬を透火に奪われた彼こそ、彼女がこの部屋に居続ける理由だ。
「芝蘭もほら、手を拭いてもらって」
「……代わりの服の用意を」
 命じる口調が最も似合っていることを、青年だけが自覚していない。
 聖光国第一王子、青(セイ)芝蘭(シラン)。
 肩に背負う責は重く、高貴の意味を宿す青年にとって、無自覚な気位が引きつける強運は計り知れない。国務のために外出をしていた彼らのうち、少年だけがずぶ濡れであることが証明の一つにはなっていた。
「ええ。既に御用意は済んでおります」
 召使が布で芝蘭の手を包み、優しく雫を拭き取る。
 コバナノランタナの花飾りが両側頭部で可憐に揺れる。襟の形は手首と合わせて揃えられ、肌の露出は少なく、前掛けの長さも膝丈と物理的にも視覚的にも邪魔にはならない。
 青家に仕える召使、特に女性用の制服は、透火からみても華やかで可愛らしい印象を持つ。男性は執事との区別をつけるため女性でいう花飾りを肩に付けるが、肩幅が広く、どこか野暮ったく感じるのだ。
 ここ青家の王城では、召使・執事が王族の生活を支えている。王族と一口に言っても、国王紫亜と芝蘭以外に血族はおらず、あとはエドヴァルド・ルーカスや月読のような紫亜に支える者たちが大半だ。軍人兵士までをひっくるめて王族と呼ぶことが多く、その数を考えると彼女のような存在はとても重要だ。
 心魔では一般的な菫色の髪をした彼女を目で追いながら、透火は自分で髪の水気を取る。
「透火様、こちらをどうぞ」
「ありがとうございます」
 廊下で顔を合わせれば穏やかに語り合う仲でも、芝蘭の前では気遣いが生じる。それは透火が芝蘭を後見人とする子供だからだけではなく、次期従者としての権利を既に勝ち得ているためでもあった。
 次の訪れる冬の終わりに、透火は十四歳になる。労働が認められる年齢に達するので、正式に役職が与えられるのだ。
 従者の訓練を終え、現在、試用従者として芝蘭の日常を支える透火は、その周辺の変化と配慮を当然のように理解していた。
「着替えてくる。芝蘭は紅茶でも飲んでてよ」
「俺のことはいいから、早く」
「はーい」
 肩を竦めて、召使と微笑みを交わし合う。
 円卓に用意したのは透火の淹れた紅茶で、まだ湯気を立てている。冷めるのを待つこともない。
 隣室へ入り、扉を締める。手早く衣服を脱ぎ、色味の異なる同じ形の衣服に腕や脚を通した。上半身は白いシャツのままだが、下半身は薄灰色の縞の入ったズボンだ。靴下まで黒で揃えてあり、ようやく、透火は堪えていた溜息を吐いた。
(衣服まで指定しなくてもいいのに)
 昔は従僕の衣装を主人が定め、華美な仕着せをあてがうこともあったらしいが、古い文化だ。それは芝蘭も知っているはずだろうに、懲りない御仁である。
 最低限の身嗜みの配慮だけを、鏡で確認する。乾いて跳ねた頭部の髪を少しいじりなおしてから、袖のない中衣を羽織る。
「お待たせ。これで満足?」
「ああ」
 召使が追加で用意したのだろう。洋菓子が円卓に並んでいる。円形の固菓子を口に含み、口元を緩ませながら芝蘭が視線で透火を招く。
 ポットの中身を確認してから、透火も椅子の一つに座った。
「ソニアは?」
「休憩ついでに着替えてくるらしい」
「そんな濡れてないくせに……」
「女性ならではのこだわりだろう」
 呆れる透火に、芝蘭が疑問もない顔で紅茶に口をつける。
 噂をすれば影と言わんばかりに、丁度、扉が軽く叩かれた。
 召使が先んじて扉を開け、中へ客人を迎え入れる。桃色の髪がひょこりと毛先を表し、それから菫色の瞳が嬉しそうに細まった。
「来たわよ」
「遅かったね」
「煩いわね、透火。淑女なんだから当たり前でしょう」
 音を鳴らすのが礼儀というように高い靴音が室内に響く。
 同じ衣装でも、豊満で凹凸の目立つ体躯を持つ彼女と透火では、性別の差が歴然だ。ソニア・ルーカスの名を持つ彼女は、貴族の出である。子供の頃の王子の遊び相手として王城へ招かれて以来の仲であり、透火とも幼馴染になる。
 彼女の場合は淑女としての学ぶべき事柄や家柄の事情により、従者となる時期が遅れたという事情があってその格好をしている。
「あ、美味しそう。透火、私にも紅茶淹れなさいよ」
「はいはい」
「はいは一回でいいわ」
 将来の同僚とはいえ、身分も育ちも差がある。特にソニアは透火に対して並ならぬ対抗心を持ち合わせているから、このような場合は透火が彼女の下に出ることで平穏を保っていた。
「そうだ、月読が、そろそろ雨上がりだって言っていたの。屋上に行かない?」
 紅茶も菓子も堪能しきらないうちに、ソニアがぽんと閃きを手で知らせる。
 焼き菓子に舌鼓を打っていた芝蘭と透火は、口の中を紅茶で潤わせてから、それぞれ窓の外を見上げたり紅茶を追加したりと行動に出た。
「なんで?」
 最後の一雫を芝蘭の茶器に注ぎながら、透火はさして関心もなさそうな声を出す。
「いいな。雲間に虹が見えるかもしれない」
 一方、外の明るさを見て、芝蘭は緩やかに微笑む。
「虹が見られたら、その日はいいことがあるのよ」
「へえ。まじないの一つ?」
「そうよ。知らないの?」
 常識でしょう、と透火に呆れるでもなくソニアは言い、残りの紅茶を一気に飲み干す。
 そもそも、雨の降ること自体が珍しい土地において、知らないことを指摘する方が無粋だ。そんな返答が思い浮かぶも、今の空気を壊したくないがために、透火は口を噤む。
「窓から見ればいいのに」
「雨上がりの外は心地がいいのよ。あんたってほんと、勿体ない性格してるわね」
「よし、行こう」
 透火とソニアが喧嘩にもならない口先のやり取りをしているうちに、最後の一口をゆったりと味わった芝蘭が立ち上がる。
 彼が動けば透火は従うしかなく、提案したソニアは矢鱈と嬉しそうだ。
 召使が支える扉を三人で抜け、他愛ない伝承の話をしながら屋上へと向かう。
 門兵が護る扉を通り過ぎて、外へ出た。
 空気が澄み渡り、冬の空を思わせる。春の空にしては青みが濃くなり、点在する雲が射し込む光を受けて砂糖菓子のように煌めいている。
「あったわ!」
 水たまりを避けて端へ寄っていたソニアが、声をあげて空を指した。
 瑞々しい空気が風に乗って金髪を撫でていく。彼女の指先の先に描かれた弧を月の瞳に写して、透火はほうと息を吐いた。
「綺麗な虹だな」
 途切れることなく空を横断する虹に、芝蘭が感嘆の息を漏らす。
 発見者のソニアはなにやら両手を組み、祈るように何事かを呟いている。
「みんなの色が入ってるね」
 二人を横目に見守ってから、透火はそんな言葉を空に投げた。
「そうね」
「そうだな」
 間を置かずに返された声にふっと口元を緩めて、いいことの意味を体感する。
(虹を見たら、いいことがある、か)
 重ならない色を持つ三人の髪が、穏やかな春の風に流れて弧を描いていた。


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