十六夜の月に照らされながら
あ、いけない。またやってしまった。
ぼんやりしていたら、降りるはずのバス停を通り過ぎていた。慌てて降車ボタンを押したけれど、私の住む辺りは、バス停からバス停までの、ひと区間が長い。
粗忽者なので、乗り間違いや乗り過ごしは、それなりに日常茶飯事だ。何食わぬ顔で、ひとつ先のバス停で降りて、ひと区間分を歩けば済む話だ。
でもその日は、とても寒かった。そして、体調が優れなかった。
ひとつ先のバス停から歩いて引き返すには、かなり長い坂道を、延々と登らなくてはならない。
だけど、他にどうしようもない。私の住む辺りは、バスの本数が少ない。ひとつ先のバス停からバスで戻ろうと思ったら、延々と待たなくてはならない。待つ間に凍えてしまう。
最近は運動不足だったし、いい機会だという事にしよう。もう少し体調がいい時だったら、もっと良かったけれど。
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風邪を引く時は、たいてい喉の痛みから始まる。その日も喉が痛かった。
でも、他の症状は無い。熱も無ければ、咳もくしゃみも無い。頭痛もしないし、声もまだ掠れていない。
ただ、やはり歩くのがしんどい。マスクのせいで、呼吸も苦しい。
カーブの多い坂道は、意外と車の交通量も多い。街灯は暗めだ。慎重に、ゆっくり歩こう。急ぐ必要も無い。
尺取り虫と同じくらいの速度で、ゆっくりと移動する。勾配のきつい坂道でも、息が上がらない程度の速度。
車のライトを見たら、立ち止まる。車をやり過ごして、また歩き出す。
尺取り虫と同じくらいの速度でも、マスクから漏れる息で、眼鏡は曇る。立ち止まって眼鏡を拭く。そしてまた、ゆっくりと歩きだす。
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このところ、疲れてぼんやりしている事が多かった。
考えても仕方のない事ばかりを考えてしまう。
風邪を引き始めていたから、思考が暗くなっていたのか、暗い事ばかりを考えていたから、風邪を引いてしまったのか。
心と体は繋がっている。どちらが先という事も無いのかもしれない。
いずれにしても、冬は仕方が無いのだ。寒い上に、日照時間が短い。冬季うつ、という言葉もあるくらいだ。体調不良も、気持ちの落ち込みも、季節のせいにしておけばいい。
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「清水さんって、声を荒げる事があるんですか? 怒ってるところを、見た事が無いです」
職場の後輩に、そう言われた事がある。
時々、「はこべさんは、優しいね」と、声をかけてくれる人も居る。
確かに、人から何を言われても、たいていの事は気にならない。人よりは怒りの沸点は高いかもしれない。
だからと言って、全く怒らないと言う訳ではない。むしろ、怒り出すと、自分でも自分が手に負えない。
でも、そんなところは、人には極力見せないようにしている。
私の癇癪の激しさを知っているのは、家族だけだろう。実家を出て以降は、両親や妹たちの前で癇癪を起こす機会も、ほとんど無い。
矛先を向けてしまうのは、主に夫と、そして私自身だ。
夫はいつも、私の癇癪を受け止めて、受け流す。「つまのエキセントリックなところは、結構嫌いじゃない」と言って、笑ったりもする。
けれど、私が私自身に癇癪を向けてしまうと、夫は決して笑わない。
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数年前、私は自傷という形で、癇癪を自分自身に向けた。
あの頃、私が自分を殴る度に、夫は必死で私を止めた。とても傷ついた顔をしながら。
その顔を見て、泣きながら謝るくらいなら、最初から癇癪なんて、起こさなければいいのに。そう思うと、自分への嫌悪感が更に募る。
誰かに甘えるのは苦手だ。人に心を許すのも時間がかかる。心を許して甘えられる人の存在が、どれだけ大切な事か。
大切な人の事ほど傷つけてしまう。そんな自分が嫌いだ。大嫌いだ。
こんな自分は、誰の目にも触れないように、隠しておきたい。出来る事なら、自分自身からも。
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不意に、我に返った。
いけない。随分と思考がネガティブになっている。
足を止めて、ゆっくりと呼吸をした。
自分への嫌悪感と怒りの渦は、一時の衝動だ。飲み込まれてはいけない。呼吸を整えて耐えていれば、じきに通り過ぎる事を、経験的に知っている。
もう少し体調が良かったら、もっと前向きに考えられるはずだ。だって、若い頃よりも、癇癪を起こす場面は、随分減っているのだから。
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呼吸を整えて、再び歩き出す。
ある程度坂を登ると、少し道幅が広くなった。
ようやく道の端に、縁石が登場したので、少しほっとした。縁石の奥を歩けば、車を避けるのが容易になる。
曇った眼鏡を拭くために、いちいち立ち止まるのも面倒だ。眼鏡は拭かずに、このまま坂を登り切ってしまおう。もちろん車には、充分注意して。
曇った眼鏡越しに見る、街灯も、車のライトも、抽象画の模様のようだ。
この坂を登り切れば、車はほとんど通らなくなる。そうすれば、家まではあと少しだ。頑張ろう。
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自傷の原因は、自分自身への認知の歪みだ。
数年前まで、勘違いをしていた。自分自身の事は、どんなに粗末に扱っても構わない、と。粗末に扱っても、誰にも迷惑は掛からない、と。
愚かだったと思う。
自分を粗末に扱う事が、いちばん大切な人をどれだけ傷つけるのか、きちんと理解した時に、自分の愚かさが身に染みた。
自分を殴りたくなる衝動と付き合う術を、数年かけて身に付けた。
誰に対しても、良い顔をしたくて、我慢をしたり、無理をしたり、しすぎるから、いちばん心を許している人の前で、爆発してしまうのだ。
良い顔なんてしないで、その都度、素直に、正直に、想いを伝えればいいのだ。四十代になってから、やっとこんな事に気が付くのは、遅いけれど、まだまだ人生は続く。遅すぎる事は無い。
でも。
素直になる事も、正直になる事も、なんて難しいのだろう。
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坂を登りきったところで、曇った眼鏡越しに、沢山の灯りが目を射した。思わず眼鏡を取る。
正体は、坂の上の集合住宅の門灯や、外階段につけられた灯りだった。
ああ、なんだ、曇った眼鏡越しだと、あんな風に見えるのか。自宅まで、もう少しだし、いっそ、眼鏡は掛けないで歩こうか。
そう思った私の裸眼に、それらとは違う灯りが、飛び込んできた。
眼鏡を拭いて、もう一度掛けた。
満月だ。
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いや、満月は昨日だった。テレビの気象予報士が、嬉しそうに伝えていたっけ。SNSでも言及している人が沢山居た。でも、体も心も疲れていて、昨日は、月を見ようという気持ちにならなかった。
じゃあ、あれは、十六夜の月だ。
朔に向けて、少しずつ欠けて消えていこうとする光。
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尺取り虫よりは、ほんの少し早い速度で、月を見ながら歩く。
無意識の内に、外面良く、人に合わせてしまう私は、結局のところ、自分に自信が無いのだろう。
そして、人に嫌われる事が怖いのだろう。
少し笑ってしまう。
嫌われる事なんて、慣れているつもりなのに。
思春期の一時期を、いじめられっ子として過ごした。
あの頃に向けられた悪意や暴言と比較してしまえば、誰に何を言われても、たいていの事は気にならない。それは嘘ではないのだ。
だからと言って、何を言われても、全く傷つかない、という訳でもないらしい。それどころか、もしかしたら、とても傷つきやすいのかもしれない。
認めたくはないけれど。
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家にたどり着いた時、あまり寒さを感じなかった。尺取り虫のようなゆっくりした速度でも、それなりに運動にはなっていたという事だろうか。
寝室の窓を開けて、十六夜の月をしばらく眺めていた。
昨日まで満ちて、そして今日から欠けていく月は、どれが本当の姿だという訳でもない。でも、どれもが月である事には変わりがない。見る事の出来ない新月も含めて。
優しいね、と言ってもらえる自分も、嘘ではないと思う。
ただ、もっと素直に、もっと正直になりたい。弱さにも、傷にも。
明日になれば、ほんの少しだけ、違う自分になれるかもしれない。ほんの少し素直に。ほんの少し正直に。
明日が無理でも、月が欠け、また満ちて、次の十六夜の月を見る頃には。それが無理でも、夜でも上着が要らないくらいに暖かくなる頃には。
ほんの少しずつでも、変わり続けていけば、いつか、知らない窓を開けて、知らない自分に出会える日が来るだろうか。
でも今日は、喉が痛いから、考えるのは明日にしよう。このまま窓を開けていても、考えても仕方のない事ばかり、考えてしまうだけだ。風邪だって悪化してしまう。
窓を閉ざして、早く眠ろう。
形を変えていく月に、おやすみなさいとつぶやいて、カーテンを閉めた。
お目に掛かれて嬉しいです。またご縁がありますように。