私にとって意味不明なものについて

テキスト:藤本流位_Rui Fujimoto

作品:Camille Henrot『Grosse Fatigue』(2013)

カミーユ・アンロCamille Henrotは、1978年生まれ、フランス-パリ出身の現代美術作家である。この論考は、彼女がスミソニアン博物館(ワシントンD.C.)主催のプロジェクトである「Smithsonian Artist Research Fellowship Program」の一環として、2013年に制作した『Grosse Fatigue』という作品について考えていくものである。


第1章 主体的なものから共同体的なものへの旅

Grosse Fatigueは、コンピュータスクリーン上のWebブラウザのウィンドウ内にて展開する現代的な文化、そして人類学的な産物_Artifactからなるイメージ群と、ヒップホップの発声を思わせるサウンドトラックを合わせた13分間の映像作品である。

Grosse Fatigueに登場するイメージ群は、アンロ自身による、Google検索にてキャプチャされたイメージと、スミソニアン博物館が収蔵するアーカイブを撮影したものによって構成される。
まずここで述べるべきは、コンピュータスクリーン内に映し出され、同時展開されるイメージである。iPhoneの上に乗っているカエルや、民族的身体装飾とコンテンポラリーペインティング、カラースケールとシャワーを浴びる男性の映像がコンピュータスクリーン上に同時展開される。これら一見したところ意味不明に思えるコンバインやペアリングはどのようにして形成されたのかということを最初の疑問点として仮固定しながら、話を進めていくことにする。

アンロは、スミソニアン博物館でのリサーチにて、スー族、ナバホ族、イヌイット、神道など多数の創造神話を集めていた。創造神話とは、各地域で語られる宇宙誕生の物語である。Grosse Fatigueでは、音声ナレーションによって創造神話の冒頭が語られている。先ほど述べた、ヒップホップを思わせるサウンドトラックとはこのことである。以下はそれらの内容の一部を書き起こしたものである。

「はじまりは地球も存在せず、水もなく、何もなかった。Nunne Chahaという丘だけがあったのだ。」「はじまりは全てが死んでいた。はじまりは光も、生命も、運動も、息吹も何も、全く何もなかったのだ。」「大きなエネルギーの塊より、全てははじまったのだ。」「はじまりは影以外に何もなく、ただただ暗い闇と、水と、偉大な神であるブンバBumbaだけが存在していた。」(“In the beginning, there was no Earth, no water, nothing. There was a single hill called Nunne Chaha.” “In the beginning, everything was dead. In the beginning, there was nothing, nothing at all—no light, no life, no movement, no breath.” “In the beginning, there was an immense unit of energy.” “In the beginning, there was nothing but shadow, and only darkness and water and the great god Bumba.” “In the beginning were quantum fluctuations.”)

アンロは、さまざまな地域の創造神話に存在する、宇宙の誕生という共通項によって、普遍的な秩序を明らかにしようとしていた。そして、もしそれができなかったとしても、それらを比較し、それらすべてを一つの物語につなげるための、何らかの構造を確立しようと試みていた。このような宇宙誕生の物語が音声ナレーションによって示されているということについてアンロは以下のように語る。

私は普段、自身の映像の中でナレーションをするということはありません。〈中略〉Grosse Fatigueの場合は、取り扱っているトピックが、テキストによるアプローチにて、より簡単に説明できるものです。なぜならば、テキストによる解釈というものが、何世紀にもわたって神話の中で宇宙の物語を語るための方法だったからです。また、私たちがインターネットを通して世界を探索しているときには、ナレーションが欠落していると感じました。(※01)

創造神話とは世界を理解するために各地域の人々によって形成された物語である。しかし、インターネットの登場以後、単一の創造神話による世界の理解は、その効力を失ってしまっていると言えるだろう。それは、イデオロギーや教義を持たないインターネットが、検索エンジンというフォーマットによって、全てが同質なレベルに平坦化された世界を構築したということ、それが世界にあふれる情報を処理するための最も有効な手段として確立しているということに他ならない。インターネットには、かつての創造神話のように世界を理解するための線的な物語は存在していないのだ。
神話からインターネットへの移行。アンロは、膨大な量の知識を蓄積することと、それらを統合することへの努力を、主体的なものから共同体的なものへの旅であると述べた。Grosse Fatigueは、インターネットによって世界を理解するために個々の主体性を構成することを試みている。その要素として、音声ナレーションによる複数の創造神話の統合が表象しているのである。

しかし一方で、このような行為は、ある種の博物学のもつ暴力的な側面を喚起していると言えるかもしれない。それは、アーカイブのために行われてきた収集や貯蔵が、博物学のイデオロギーによって、権威的に振るわれてきた暴力の証明であるということも考えることができる。しかしながら、議論が大きく逸れると思われるので、これ以上の展開はここではしないものとしよう。


第2章 インターネットとパースペクティヴィズム

Grosse Fatigueのイメージ群がなぜ意味不明に見えてしまうのかという問題についてもう一度考える。前章では、神話が持つ主体的なもの、つまり物語性がインターネットによって、共同体的なものへと、編纂されているということについて議論してきた。各地域の物語がGrosse Fatigueのネットワーク化された複数のパースペクティブを持つ物語として編纂されなおしているということ。この思考の動きの理解を進めるために、人類学者のエドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロによって議論が進められた「パースペクティヴィズムPerspectivism」という概念を説明する。
ヴィヴェイロス・デ・カストロによると、異なる種の対象化を条件づける主体のパースペクティヴは身体に根ざしており、世界にいる存在のあいだの差異は、何よりも身体的な差異であるために、パースペクティヴの多様性が生じることになると説明される。(※02)

同一種の個体は互いを(そして、お互いだけを)、人間が自らを見るように、つまり、人間の姿と慣習を備えたものとして、自らの身体的および行動的な相を人間の文化形態のうちに見るのである。ある種の主体から別の種の主体へと移行するときに変化するのは「客観的相関物」、これら諸概念の指示対象である。(※03)

この後に、ヴィヴェイロス・デ・カストロは「マニオク酒」という飲み物(指示対象)についての具体的な議論を展開している。「マニオク酒」と聞けば、私たちは好ましいように思える何らかのアルコール飲料を想起するだろう。しかし、「マニオク酒」とは、アメリカ大陸先住民のあいだで、「人間の血」を意味する言葉として使用されており、それはジャガーに好まれる飲み物を指す言葉なのである。ヴィヴェイロス・デ・カストロは、このように異なるパースペクティヴのあいだに生じるものとしての「取り違え」、こうした差異によって浮き彫りになる「常識が共有物などではない」という理解を前提にかたちづくられるのが、人類学的思考であると解釈する。(※04)

Grosse Fatigueは、意味不明に見えてしまうということを相対化するための装置として働く。それは、私たちの持つ視点というものが構造主義的な力によって、一つの枠に固定されてしまっているということであり、だからこそ、私たちは、イメージそのものに言語的な意味を与えることを無意識的に行なってしまっている。それをGrosse Fatigueは喚起しているのだ。私たちは本能的に、物事に意味=物語を探そうとしている、与えようとする種なのである。無数の、数限りないパースペクティヴによって構成される収束しえない世界には、常識という共通の秩序は存在しえないのである。


第3章 Grosse Fatigueが持つ不安感

インターネットには、多様な解釈によって主体性が確立される情報が無数に存在しているため、私=主体にとっては、理解できないような情報やオブジェクトが存在することもある。理解不能なものがインターネットには存在しているということを受け止めなければならない。情報と個人の関係性についてアンロは以下のように語る。

より多くの情報にアクセスできるようになればなるほど、それだけ不幸になる可能性が高くなるということであり、Grosse Fatigue——タイトルだけで考えても——はこのことに関係していると言えるでしょう。神話においても、知識は人々を不幸にさせるものです。〈中略〉対照的に、人類学や哲学は常に刺激的で少し治療的ですが、それは同時に、あなたの問題を増やすものです。知識はあなたを不幸にするだけでなく、あなたに安心感を与える、ある種の薬です。私はそれが、情報に対する大まかな関係性であるようと思っています。(※05)

私には、より多くの情報にアクセスしたいという気持ちが、インターネットに対するある種の信仰心、インターネットを信じていたいという感情的な側面を促しているように感じる。知識=情報を共有するためのツールとしてインターネットはなくてはならないが、ヴィヴェイロス・デ・カストロが言うように、私たちが一視点的にもつ常識を共有物として、当たり前にしてはならない。Grosse Fatigueは、インターネットに存在する情報を自身の目的のために使用している私たちに、不安感や疑問をもたらす。そして、それはある意味で、インターネットにおけるミームやフェイクニュースなどのもともとは一視点的な解釈だったものが、グローバルな効力を持つようになってしまった今日におけるポスト・トゥルースの状況を批評的に捉えていると言えるかもしれない。

「Grosse Fatigue」は、フランス語で「すごく疲れた」を意味する言葉である。確かに、膨大すぎる情報を前にしたときには、私たちは少なからず疲労感を感じるだろう。Grosse Fatigueの映像自体もそのような疲労を感じる映像である。テクノロジーによって、膨大な量の情報がアーカイブされているが、私の脳は、どこかに存在している自分とは全く異なる文化を持った他者のパースペクティヴによって、それらの情報やイメージを処理できないということ。Grosse Fatigueからは、人間中心主義的なイデオロギーからなる知識の獲得の限界であり、個人の人間が持つ能力の限界が提示される。


注釈
※01 「OCULA CONVERSATION Camille Henrot in Conversation」
https://ocula.com/magazine/conversations/camille-henrot/?fbclid=IwAR3XWvahjCaW_lNJNo583t7ZhHofCXs59APbSwQqQk32FJ-XkHMiP5JmtAY
※02 奥野克己・石倉敏明 編『Lexicon 現代人類学』p.22(以文社 2018年)
近藤宏「04.パースペクティヴズム」より参照
※03 エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ『パースペクティヴの人類学と制御された取り違えという方法』(青土社 2017年)
(『現代思想 2018年1月号 特集=現代思想の総展望2018』より抜粋)
※04 02と同様
※05 01と同様

*画像はインターネットより抜粋

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