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東日本大震災を訪ねて②

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2019.3.9 2日目。

朝から、宮城 仙台へ電車で移動。

前日と違い朝だったので、車窓からたくさんの景色が見えた。

中でも印象的だったのはこの光景。

同じ形の平屋住宅が、あたり一面に。

仮設住宅か……?
いや、仮設住宅にしては立派だな、と思い調べてみると、どうやら復興公営住宅のよう。

いずれにしても、東日本大震災がもたらした少し異様な景色だった。


2日目-1 「生」を失った町

現在の常磐線は、福島第一原発手前の富岡駅が終点。

それより北は代行バスに乗り換えて仙台方面へ抜けられるようになっている。

私達は、この代行バスに乗って仙台方面へと向かった。

バスは、福島第一原発を通過し、
浪江、小高、原ノ町の3駅を通る。

Google Mapの★の📍が福島第一原発。

■の📍は、それぞれの駅。


このバスは、いまも帰宅困難区域になっている地域を通過するのだけれど、

その窓から見た景色が衝撃的だった。

ローソンの跡地と精米機。

パチンコ屋とコーヒーショップ。

何も無い、とかじゃないんだよね。

あるけど、生きてない街。

本当にあの時のまま時間が止まっていて。

福島第一原発の横を通過

少し進んで、小高駅の近く。

あたり一面にこの光景が広がってた。

なにこれ?って思った。

隣に座ってた人が、これは汚染土だよって教えてくれた。

放射線が漏れないように、黒い袋に入れられて、積まれているんだって。

調べてみたら、政府はこの汚染土を公共事業に再利用する計画を立てていて、それに地元住民が猛反対しているらしい。

そりゃそうだろ。何考えてるんだ。


というか、私、そんなこと知らなかった。

「小高駅 汚染土」

こう調べたら、たくさん記事はでてくる。

けれど、首都圏にいて、普通にニュース番組をぼーっと眺めてる私は知らなかった。

知っていたら皆反対する、けど、知らない間にそうなっていくことがどれだけ多いんだろうかって考えたら、怖くなった。


そうしている間に、バスの終点に到着。

このあたりは、自転車で走ってるおばちゃんを見かけたり、商業施設が賑わっていたり、

ようやく「生」を感じられた。

この原ノ町駅から再び常磐線に乗って、仙台に向かった。

…………

宮城県は、仙台出身の先輩が震災を経験した方を紹介してくださって、その方達と先輩に2日間案内してもらった。

この日は、女川と石巻を訪問。


2日目-2 復興のトップランナー 女川

女川と書いて、おながわ。

大学の友達が、復興支援のプロジェクトに携わっていて、よく女川を訪れていたので、名前だけは知っていた。


女川駅

駅前の商店街シーパルピア女川

正直、ちょっと驚いた。

駅は、金沢?
商店街は、横浜?

そんな気持ちになるくらい、きれいに整備されていて。

震災の痛ましさとか、そういった類のものをあまり感じさせなかった。

…………

まず、お腹が減ったので腹ごしらえタイム。

最高。

やっぱり海沿いの街は、海鮮が美味しい……。

食堂のおばちゃんは、とても優しかった。東北は人があたたかい。

シーパルピアの外では、魚の干物とかがこうして売ってたりして。

…………

食事を終えて、シーパルピア内にある女川町まちなか交流館へ。

震災に関する女川の情報がパネル展示されていて、資料から当時の様子を知ることができた。

震災後の女川町

復興の進捗状況

8年も経つと、ここまで復興するのか。

最初はちょっとした驚きもあったけれど、8年あればそうかなぁと素直に受け止めてしまった。

無論、他の街はこうではないことを、あとから知るのだけれど。

女川は「復興のトップランナー」と呼ばれていて、津波被災地の中で最も復興が進んでいる町だという。

…………

そんな女川も、一歩海沿いに行くと、

津波の被害がどれほど大きいものだったかを感じた。

旧女川交番

震災遺構になっている、旧女川交番。

基礎の部分から倒れている。

ちょうど4~5歳くらいの子供が、これを見て「倒れてるねえ」と言っていた。

震災の日を知らない子ども、というのが頭に残った。

うちの弟も生後1ヵ月だったから、何も覚えていない(覚えてるはずがない)。

これから時が進むにつれて、震災の日を知らない人達が増えていく。

それは当たり前のこと、避けられないこと、

だから、何かしら伝えられるように私も知らなければならないって、そんなことを考えながら歩いた。


2日目-3 石巻・日和山

夕方には、石巻へ。

この日和山は、震災のときにたくさんの人が避難して、命が助かった場所だという。

更地のまま。何もない。

(ここで、同じように津波の被害を受けた女川の復興がいかに早いかが分かった。)

ここでも、複数枚のパネルが用意されていて、東日本大震災の被害や当時の状況を知れるようになっていた。

実際にここから、津波が襲ってくる様子を見ていたんだ、と。

どれほど怖いんだろう。

私だったら、正気じゃいられない気がする。

…………

このあたりの区域は、「災害危険区域」として居住禁止になったらしい。

津波が起こったら危険だから住まない、その考え方はある意味合理的なのかもしれない。

被災した先輩はこんな言葉をポツリ。

元々住んでたところに住んじゃダメっていったら、何が復興なんだろうね

被災した地域はたくさんある中で、自治体によって、その定義もこれからの方針もまったく違う。

何が復興なのか。

帰りの車の中では、その言葉が頭から離れなかった。

…………

夜は、1日案内してくださった先輩方とお酒を飲んだ。

太助の牛タンとビール

ほや と いぶりがっこ

事前に、こんな言葉をかけていただいていた。

震災に向き合うことが1番の目的になるかと思いますが、美味しいご飯お酒、綺麗な景色、復興に向けて歩む人や街の姿
色んな角度から宮城の魅力も感じてもらえたら嬉しいです

この言葉に甘えるような形で、たくさん楽しませていただいた。

「東北、いいぞ!」

こう伝えることも、できることのひとつなのかな。

とりあえず、ほやは美味しいので、酒飲みは一度お試しあれ。(ハマった)

…………

次の日は、閖上・荒浜へ。

(2019.3.9)

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