6/9 誰も野原ひろしのことを本当には知らないのではないか

花1.5倍のジャスミンティー、500mlのボトルを買い占めてしまい、まだ入荷されていないので、店にあるだけの2Lのボトルを買った。もう自分が花何倍なのかもわからない。お店の人は売上のデータを見て入荷を検討しているだろうが、短期間でこのジャスミンティーだけ他のお茶より売れてるからブームになってると判断してあるとき大量に入荷してくるかもしれない。俺が一人で買っているとも知らず。そうなったら俺は店に損失を出さないように責任を取って次の入荷分も買い占めなければならない。俺にやれるだろうか。その覚悟があるだろうか。

1週間ほど前にTwitterに流れてきたこの漫画のコマがふとした瞬間に脳裏に蘇ってくるんだよ。野原ひろしのスピンオフ的なグルメ漫画という立て付けの作品だが、確かにこんなに空虚なセリフはなかなか書こうと思っても思いつけようなものではない。この空虚さ、あまりの原作からのキャラクターの解離ぶり、野原ひろしである必要の無さに一部では「自分を野原ひろしだと思い込んでいる一般人」の漫画と呼ばれている作品だ。確かに一見しただけで作者の野原ひろしへの興味のなさがよく伝わってくる。ちょっと読みたくなっている自分がいる。

しかし、じゃあお前はこの作品のことをどうこう言えるほど野原ひろしのことを知っているのか?と聞かれると黙り込んでしまう。確かに子供の頃、金曜の夜はドラえもんとクレヨンしんちゃんが家で流れていたので、この父親のキャラクターに親しみはあるが、漫画のクレヨンしんちゃんはちょろっと1巻ぐらい読んだ記憶がおぼろげにあるぐらいだ。漫画のクレヨンしんちゃんを読むタイミングというものがわからない。耳鼻科の待ち時間とかにたまたま本棚にあったら読むかもしれない。

俺の中で野原ひろしと言えば「いろんな名言を言ったことにされてる人」だ。ネットでまとめられている野原ひろしの名言集には明らかに野原ひろしが言ってないことが含まれている気がするが、誰もあまりそれを気にかけない。俺もそこまで調べない。そのようにして、野原ひろしについては二次情報だけが広く知れ渡っている。

「自分を野原ひろしだと思い込んでいる一般人」という言い方はこれを発端として様々に言い方を変えられネットミーム化している。そう言われると絶妙に納得がいくと同時に不安な気持ちになるような不思議な言葉の感触がある。もしクレヨンしんちゃんが実写映画化されるなら、その役者や演出家がどれだけ忠実に原作を再現していたとしても「自分を野原ひろしだと思っている一般人」という感想が出ることは止められないだろう。だってその人は野原ひろしではないのだから。さらにいうと、あらゆる映画や演劇の出演者だって「自分を(任意の役柄)だと思っている一般人」という言い方ができてしまう。演じるとか役に入り込むというのはきっとそういうことだろう。たとえ本人役で出演していたとしても「自分を(本人)だと思っている(本人)」ということになるのではないか。さらにいくと映画や演劇に出演していなくても誰もが自分を自分だと思い込んでいるがそこに一体どんな根拠があるのだろうか?俺は自分を東信伍だと思い込んでいるがお前はどうだ?

おやすみーーーー!!!!!

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