生理的な問題​ - 仮定へのフィードバック

非常に個人的な感覚になるのだが、生理的に受け付けない人の存在というのがあって、その相手にはまったく罪はなく完全に自分の問題なのだろうが、そういう相手にはともかく全プライバシーエリアが1.5倍ほどは広がり、やることなす事、目は合わせたくないし匂いさえも感知したくない。ましてや、触れるなんてありえない。こうして書いてみると自分ひどい人間だなあ(笑)。

その結果として相手に憎悪にも似た感情を抱いてしまうわけだが、その話を知人としていた時のこと。「それって、その人のことが好きでたまらないんじゃないの」と言われて、一瞬ブラックアウトした(くらいの衝撃だった)。

おそらく「好きな感情」と「嫌いな感情」の直感的感覚の近さとでも言うのだろうか。

これについてはどこかで聞いたような話でもあるのだけれど、結局のところ「嫌いだ、嫌いだ」と刷り込ませ薄く重ねていく感情は執着からくるものであり、そこが「好きで、好きで、仕方ない」感情と比べても、「執着」という視点から見ると同じである、というところにとりあえずの自己帰結をみてみた。執着は客観性を欠いている状態なので、事実、自分の身に降り掛かってみないことには実感がわかない事象であるわけだ。

だとすれば、単純に考えると執着の原因である相手への興味自体をなくせばいいのである。私はこの行為をよく「手放す」と呼んでいる。物事を黒白、明暗なんかの両極端へ位置づけせず、ニュートラルなグレーに放り出してしまうこと。なかば意識的に。

相手を傷つけずに心だけゆっくりと手放していく。練習は必要。冷徹なようだけど混沌としたこの世を泳ぎきるには、お互いを傷つけない方法も必要だと思っているし、答えのないニュートラルな感情と折り合いをつけ、受け入れていかねばならないと思う。善良、黒白を子供に解きながら、グレーを自己で許す大人の出来上がりである(笑)。

もちろん理解し合いたい相手とはとことん議論しあうやり方もあろう。嫌いが突然好きになる事例も理解できる。でも、私はそれほどマッチョなメンタルを持ちあわせていないし完璧主義な傾向があるからこそ、無理はしない、自分なりの妥協点を持った逃げ道を用意するようにしている。

たまにこうやって第三者の目線から聞かされるまで気づかないこともあるのだけど、全く何にも執着しないこだわらない人生も味気ないよなあ。どうやら手放すにもしきい値を設けなければならないようだ(これもグレー 笑)。



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