丸田洋渡「潜水」を読む

 丸田洋渡とは月に一度、句会をする仲だ。同期の大学一年生である。なにげない彼のエピソード(気づいたらベンチで携帯開いたまま眠り込んでいるとか、その裏に句が手書きで記されているお手製の名刺をはにかみながらくれるところとか)をおもうとほんとうに得難い句友だなあと感じて、にやにやしてしまうのだけれど、まあそれは前置きとして、彼はツイッターで新作を発表する。すると「いいね」が付き、リツイートされ、短評が飛び交う、そんな現象を何度か見ていて、ツイッターのもつ瞬発力みたいなものを感じざるを得ないのだけれど、ぼくはそこにテクストの不憫さを思うときがある。

 それはおそらく、ツイッターで彼の句が人の目に触れる過程と、典型的な消費の一形態が類似しているからで、といってももちろん、そこにどんな読みが起こっていて読者にどう受容されているかは測りようがないから、あくまでも消費の形態と、タイムラインという空間での表面上の、つまり可視化されている部分の形態が似ているというだけで、実際に消費されているなんていうつもりはない。おそらくぼくが想像する以上のたくさんの人が彼の句を真剣に読んでいるはずだし、また多くの人がそのように憤るだろう。

 ただぼくにはあの「いいね」がどれだけインスタントに押せるかということが、容易に想像出来もするのである。もしも、もしも立ち止まることと真逆のベクトルの、使い捨てカイロみたいな読まれかたが、あのたくさんの「いいね」として可視化されているとすれば、などと思えてきてしまったとき、そんなときはやはりなんとも言えないやりきれない気持ちになるのであって、ぼくが出来る唯一のことは、彼の句を立ち止まるかたちで読むことなのである。
 念のためだが、ぼくは彼がツイッターで句を発表していることを決して批判しているわけではない。むしろ逆だ。それに、賞に出したり投句したりした際の読まれ方が消費でないと誰が言えよう。

 結局のところ、それは媒体ではなく、テクストと読者の在り方に帰結する問題だ。消費する読者はどこにでもいる。つまるところツイッターというのは消費しているかもしれない読者が「見えてしまう」構造をとるだけなのである。消費する読者はどこにでもいる。自分の読み方がそうでないと言い切れないことが、それを担保するだろう。自分が最も見やすいところに勝手な中心点――「ものがたり」や「もの」や「実感」や「構造」――を設定しそこへ収束させるような読み方、しかし、そこから取りこぼされる残滓こそ最もテクスト的な性質をもつものなのではないか。

 中心点を作る読みしかできないぼくたちが意識しなければならないのは、逆説的にそういうところだろう。取りこぼしていることへの意識がない快楽は単なる消費だ。テクストに対する傲慢だ。だからたとえ欺瞞で自己満足だとしても、取りこぼされてきたものへの祈りに似たような形で、テクストに立ち止まりたい。それがそもそもテクストを読み得ないぼくたちの精いっぱいの誠実さだと思う。前置きが長くなった。

つららつらら火の哲学を失つて

 17世紀の詩人ジョン・ダンに『The first Anniversary』という詩集があり、〈And new philosophy calls all in doubt; The element of fire is quite put out; The sun is lost, and th’earth, and no man’s wit Can well direct him where to look for it〉という一節がある。新しい哲学が全てに懐疑をかけ、火という元素はすっかり消え去ってしまった、丸田洋渡がいわんとすることはこれと似たことのように読める。古代ギリシャ以来の伝統的な火という元素の消失。ただジョン・ダンのいうそれは、もっとその身体感覚に差し迫ったのっぴきならないものであったのではないか。知識の更新による土台の崩壊という危うさ以上に、そこには火という存在への畏怖が宙ぶらりんになってしまったことへの戸惑いがあるのではないか。太陽、地球の消失も同様のものであっただろう。
 対して、丸田洋渡の〈火という元素の消失〉は決して身に迫った危うさではない。〈つららつらら〉という軽妙な、ともすれば幼稚さすらをも感じさせるリフレインは、失った旧来の知識を嘆きうろたえる賢者のそれではなく、遠い昔に価値が無くなった知識を愛おしむもののそれだ。火と対になるものの取り合わせとしての氷というのは目新しくはなく、火を失うというところともやや因果的な接近を思うのだが、それにしてもこのライトな書きぶりと句材のバランス感覚は妙にうれしい。

冬の園少女七人のみ館

 これは連作という意図からするとイメージの連なりとしておそらく前句の氷柱はこの館のものなのだろう。この句を単体で見ると〈少女七人のみ館〉がどうにも舌っ足らずに思えるし、園と館という作り方が構造的に安易な気がするのだけれども、前句との関わり合いを強くして読めば、退廃的な空間にいる七人の少女のありようが思われる。

遺影えいえん微笑んで水涸るる

〈遺影えいえん〉のようなリズムの崩し方は一句目の〈つららつらら〉を思わせ、〈冬の園〉の句を挟んで一句目と三句目が互いに増幅しあうような感じを受ける。中七下五のあいだで軽く切って読むのが意味として一番すっきりすると思うので、遺影が永遠に微笑んでいるといった意味で取るのが自然だろう。写真のなかの人の表情の永遠性に言及したところにキャッチーさがあるが、ぼくはそれよりも取り合わせの妙に惹かれるし(付きすぎなようでいてぜんぜん付いてない気がする)、口語と文語が一句の中に奇妙に同居する、その彼の口語と文語への等距離感、フラットさみたいなものにもメタ的な視点で興味を惹かれる。妙な明るさがある。

屋上のように冬野への階段

 これは順当に考えてみれば〈冬野のように屋上への階段〉の〈屋上〉と〈冬野〉を逆にしたのではないか、と推測が出来るわけであるが、面白いことが起こっていて、つまり、皆さん、のぼり階段を想像したんじゃないですか、ということである。〈屋上〉と〈階段〉の親和性が強すぎるから、ぼくらはのぼり階段をイメージし、そのイメージが〈冬野への階段〉へも持ち込まれているのだ。ふつう冬野へ出る階段って降りていく階段だろう。この句に於いてぱっと視界が開けないのはそのようなところに起因するのではないか。ただ景が立ち上がらないのは欠点ではない。書き方の選択の問題で、何を信じるかだろう。

書架たちくらみ霜月今おやすみ

 口語俳句の価値というのは口語であることそれ自体ではない。日常使っている言葉だから親しみやすいというのが更新としての価値になるのはもはや過去だ。今もまだそのような認識で口語を評価しようとしているならそれは認識を改めるべきだと思う。口語の特徴を戦略的に見定めた作家が〈何をしているのか〉というところに目を向けなければ俳句史の可能性を探ろうとする口語俳句はいつまでたっても見えないままだ。
 この句が文語では絶対に書き得ないリズムを内包しているのは明らかだろう。文語は定型へとの親和性が強く句の型が限られがちだが、口語はそういった面での更新を引き受けることが出来るのではないかと思わせるくらいには自在にずらすことが可能だ。うねるリズムは定型で読まんとする無意識の癖と相まってより魅力的な膨らみを見せる。書架の中でふっと倒れながらも霜月という抽象に挨拶するかのようなイメージの展開も不思議な官能がある。

渦/冬が/夜に/減速/君の部屋

 これは多行俳句として読むべきなのだろう。高柳重信以来の多行俳句の蓄積を思うとぼくの読みは心もとないものとなるだろうが、ご海容を。〈渦〉というのはその後の〈冬が/夜に/減速〉というイメージの具象としてあるのではないか。分かりやすく言えば低気圧のように、冬はある一点へ向かい巻き込み収束しつつ進むのだ。北風吹き募る冬、しかしながら嘘のように君の部屋は静かで穏やかだ。書架のイメージを引き受けると、君は一人で読書なんかをしているのかもしれない。一点の特異点として君の部屋がある。

ともだちがみんな喘息冬うらら

 ここでも〈少女〉とか〈館〉のイメージが効いてくる。体が弱く空気がきれいなところに住まわされる女の子なんかを思う。そうすると友達も必然的に似た事情を抱えた子が集まる訳で、友だちがみんな喘息であるなんてことも起こり得るだろう。季語のもたらすやすけさがむしろ痛々しい。彼は季語で〈救わなければならない〉のである。このあたり、同じ時代のパラダイムを共有するものとして切迫したものがある。なんとなくスピッツの「空も飛べるはず」のミュージック・ビデオを思い出した。

水仙と釦と星と休火山

 名詞を四つ並べた句。これもここまでの連作の流れを汲むと、〈水仙〉は〈冬の園〉、釦(ぼたん)は〈少女〉あたりと呼応するだろう。構成意思の手綱を意図的に緩めてあって、それぞれのイメージだけがゆるやかに広がる。休火山のつかの間の静けさは〈ともだちがみんな喘息冬うらら〉の季語による救いと通ずるものがある。

霜夜このまま死んでゆくよいいよね

 死が自己完結しない。死にゆくことへの緩い確認がこんなにも幸せに見えるのはなぜだろう。七・六・四のリズムのずらしがどんどんと暗がりへ落ちてゆく感じの担保となる。韻律と意味は密接に関わる。

のそのそと鯨は兄に会いにゆく

 のそのそ、なんてまるで鯨に足があるみたいな書きようではないか。普通に考えると水棲生物に使われる擬態語ではないだろう。それでも〈のそのそ〉と〈鯨〉が出会うことを許せてしまうのは、そもそもぼくたちが鯨という生物をカテゴライズし損ねた感じを共有しているからではないか。水中に棲み成す哺乳類と言われた時の妙な感覚が、そのままこの措辞に対する違和なのではないか。なんのテクスト的な保証なしに〈兄〉と言っているところもぬけぬけとしていて、むしろリアリティがある。
この辺りから連作は色合いを変え一貫した物語を軸として語れなくなっていく。

白菜を親ひとことも話さない

〈白菜を話す〉という言い方の文法的な適切さを論ずるよりも、そのような語法を選んだことの効果に注意した方が書き手の意図には近づき得るだろう。あいだに〈親ひとことも〉が挿入されるかたちになっているから意外と気にならない気もする。というか、発想としては〈親ひとことも話さない〉の方が先なのかもしれない。
 白菜のことをそう日常的に話す親子はいないだろう。となれば、この句の前提には、親が白菜のことを話さなければならないようなのっぴきならない事情とか、あるいはのっぴきならない状態な白菜があるはずであり、それなのに親がひとこと話さないからこのような状況が生まれていることになる。ユニーク、といいたいところだが、白菜は言語化しがたい日常の不条理みたいなものの象徴としても読めそうでもあり、あるいはそういった穿った見方をしなくても、なにかが普通のテンションで書かれていることそれ自体がうす気味悪く思えたりもする。

熊と手を繋いで帰る約束を

 熊ってそんな優しくないよと教えてあげたくなる。
 口語で切れがないゆえの均質的なちからの入れ具合が、より〈ものがたり〉に接近させる。ぼくはアンチ〈ものがたり〉派で、このまえ彼にそのことを伝えたら、俳句には俳句の〈ものがたり〉があると思うけどなあ、とにこにこしていた(ほんとのところは電話口だったからにこにこしていたかは分からないが)

湯豆腐を敬称略と思い初む
 この句はいささか発想が先行しすぎている気がしていて、というのも、突飛な発想を〈思う〉という動詞で十七音に落とし込むのはやや安易ではないか。敬称略も難しい。〈お豆腐〉って言い方があるけれど、決して〈お湯豆腐〉にはならないなあ、〈湯豆腐〉だなあ、でも〈お〉って敬意表現じゃないわけで、などと考えるとどうにもこうにもいかなくなるうちに、〈初む〉の変な感触だけが残る。

とまあ、そういうわけで丸田洋渡が十一月十一日にツイッターで発表した「潜水」13句を読んでみた。彼は十一月中、毎日創作した俳句や短歌をツイッターで発表していたので、ぜひぜひ目を通してみてほしい。


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