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美しい世界に生きる

講義:『美しい世界に生きる』
講師:安斉弘毅

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    森を遠くから見ると、確かに緑は緑なのですが、近くに行って一つ一つの植物、葉なんか見るとまるで形も色も違っていて、なんなら緑一色ってこともなく茶褐色や黄色、赤色、黄緑色、あと、花が咲いていたり、葉の上にてんとう虫が乗っていたり、実に色とりどりなんです。

    ただ緑色の葉っぱが多いってだけで、それ以上でも以下でもないのです。
それに、木の幹をよく見ると、立派な苔が木肌に覆い被さっていたりなんかして、木一本丸々緑に染まっていたりします。


    子供に木を描かせると大体決まって、木の幹が茶色でその上に楕円の形をした緑色の葉が乗っかっている絵になりますが、キノコみたいな木は現実にはそう多くありません。現実はかなり複雑で、例えば、街の街路樹の木を見てみましょう。一見みな同じ木がずらーっと奥まで続いているように見えますが、これまた微に入り細をうがち、一本一本比べてみますと、枝の生え方から葉の茂り具合まで千差万別であることに気付くと思います。別の例を挙げてみますと、例えば春になると、人は桜の森の満開の下で昼間っから酒を酌み交わして和気あいあいと談笑していますが、ああいった一見整然と並んだ桜並木の木も一本ずつ丁寧に比べてみますと、枝の生え方から花弁の形から全て異なっていることに気が付くでしょう。  


   我々は、不均衡な色・形の木を頭の中で一つのイメージに統一してしまうようです。例えば、ポプラの街路樹を通るときに、「これはポプラの木で、これもポプラの木で…」と結局木の細部に目をやらないで、この木もあの木も「ポプラの木」と俯瞰して見てしまっています。はたまた桜の並木道を通っても、「桜はやっぱり綺麗だなあ。」と感嘆しますが、桜の木も一本ずつ微細に異なっているにも関わらず、全て頭の中の桜の固定したイメージで見てしまっています。学校に咲く桜も、上野公園に咲く桜も、皇居に咲く桜も、皆人々にとっては一つの桜という固定のイメージでしか映りません。


   少し話が難しくなってきたので、もう少し噛み砕いて例を挙げることにします。人混みの中でしばしば人は「人が多い。」と口々に唱えます。その「人」というのは、人間という生き物が多いという意味で使われており、一人一人は違った顔をして違った服を着ているにも関わらず、その場にいる全ての人を総称して「人」と言っているのです。しかし、人というのは人間が後天的に色んな生き物を分類したときに作られた概念であります。一人一人の顔や背の高さに着目しなくとも、俯瞰してこの人もあの人も「人」であると判断しているのです。背丈が0.5m〜2mくらいで、細長くて顔、首、腕、身体がある細長い生き物を頭の中の「人」のイメージと照合して、そのイメージに沿う人が「人」として認識されます。ですが、一人一人に着岸すると、目の位置や形、髪の生え方、脚の長さや体毛の濃さは異なっていて、「人」は人ですが、もしも人と総称しなければ、皆が違った独立した存在として認識できないでしょうか。


     桜もポプラもケヤキも同じです。一本一本「桜」だと思えばそれまでなのですが、固定したイメージで当てはめることで、じゃあ具体的に同じ桜の木といってもこの桜の木とあの桜の木の特徴は何だろうという発想が生まれにくくなりやしないでしょうか。先程「人」の例を出しましたが、人の場合は、一人一人容姿が違っているという認識が皆の頭の中にあるため、一人一人を完全に同じ「人」だとは思わないでしょうが、しかし、じゃあ一体あの人とこの人はどんな特徴があって、二人はそれぞれ具体的にどのような違いがあるのかと踏み込んで見ることは少ないのではないでしょうか。  

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  頭の中で固定化したイメージは、我々の見る世界を変えてしまいます。概念や言葉は、物を言いくるめるには便利なのですが、その便利さに頼り切ってしまって、世界を見る目を狭くしてしまうきらいがあります。人間は何かと分類するのが好きな生き物ですが、カテゴライズされたからといって均衡が取れるわけではないのです。
街路樹は、一本一本よく見ると実に不均衡であることに気付くでしょう。若者といっても、一人一人がまるで異なっていることに気付くでしょう。何かを固定化した視点で見てしまうと、その凝り固まった視点から逃れられないですが、もし仮に見ている世界を豊かにしたいのであれば、一度これまで培ってきたカテゴリからの脱却を意図的に測る必要があります。固まったチョコレートは冷蔵庫で冷やしている限り固まったままですが、冷蔵庫から出して温かい場所に置けば溶け出します。そのように、これまで頭の中で無意識に分類していた便利な箱の中から、放り投げる必要があります。それほど難しいことではありません。コツは、だだ一つです。それは、

微に入り、細をうがつ 

です。全てのものを新しいものを見る目で注意深く眺めればいいのです。客観的になるよう努めて、あとは丁寧に観察をします。そうすることで、新たな気づきがあるかもしれません。また、外を歩く時の一人の楽しみとして密かに胸の奥にしまっておくこともできます。

   

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     以上が、22歳になったばかりの安斉からの講釈です。生意気な、と気分を害してしまった方もいるかもしれませんが、どうか人を年齢で見ることからも脱却して頂ければ、と思います。年齢もまた、人が後天的に作り出した概念で、分類です。あくまで年齢は何年生きたかしか伝えてくれません。それだけです。だからこそ、我々は人を年齢ではなく、どんな生き方をしてどんな考え方をしているのだろうかと、年齢という先入観なしに、相手の心と対話すべきではないでしょうか。おそらく、どんなに見下している人でも自分より優れた点が何かしらあると思います。だから、このことに気付いている人は謙虚にならざるを得ません。


美しい世界に生きたいと、世界が美しくなるのを待つのではなく、自分の感性によって世界を美しくしようと思うのです。


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