add 「ゲスト」World++select:アイネクライネ

騙りや自分を無為に大きく見せる事、人に嫌われて当たり前の事はしてはいけない。

確認手段が無い。だましは、人を傷つける。頼りになるとか成らないじゃない。

人を傷つけるという事は……、俺の社会的死を覚悟しなければならない。

言葉でも力でも、どっちであろうと……。

冗談にして良い事と悪い事もあると言うことに気がつかなければ、いけない。

人の心を殺す言葉がある。特に残る言葉のダメージは計り知れない。

人を追い詰めるとは、逃げ場の無い言葉だ。
偶然はあるだろう。模写もあるだろう。公の責任もあるだろう。

越えてはいけない。本物と違うものもあるはずだ。その人の個性が何処にあるのか?

まず、苗字名前、コミュニティーとして属する場所で使う名称。

言葉の使い方、比べていけば、先人の知恵である事は明白だ。
ただ傍にいたい人を遠さげる言葉は、それ以外のものも遠ざける。

本当の孤独は自分自身が嫌いになる事を平気でしてしまう事だ。
戸惑う、躊躇する。それでも、書くしかない現実を自分の中から、吐き出すのだ。

これは綺麗ごとだろう。人の弱みに付け込む事は、それこそ、守るので、なければ、
利用しているということだ。時に、嫉妬、怠惰、劣情、憧れからくる負の感情が、暴走し、
認められない事に問題を作り、落下し続ける。人の心の柱を折る、圧倒的な、嫌がらせは、

傷つけるだけでなく、猜疑心(さいぎしん)を産み、人として、理解されなかった自分の弱さを、
持って、人として、自分への理解を示して、もらえない、苛立ち(いらだち)で、理解者を放棄してしまう事がある。

何処かには、共通の趣味なり、共通の意思があるものはいるだろう。
心のシグナルは、何処でやめ時なのか、気がつかず、動く事もあるだろう。

過剰(かじょう)とは、そういうことだ。ただ、正しい事をする。それでも、誰かにとっては、大事な事でも、
その程度の事は、という価値観もある、正しさのつもりで行動して、一番、必要なものを無くすこともある。

ほら其処にいるだろう……。

人を遠ざけて、理解者を放棄した人物が、
助けて欲しい時に声を上げないのは、もっとも愚かしい。と言いながらも、
一線を越えて、人は、本当に悪になる……。コミュニティーを守る事は、コミュニティーの敵に成る事ではない。

進行方向にただ手を添えるだけでもいいのだ。

誰かの笑顔の為に、誰かが泣いていると言うことに気がつく。

自分との対話なのか、自分を知っていて欲しいのか? いつか思い出になっても忘れて欲しくない。と思う事に
何かはあるのだ。 それは、自分にとってつらい事かもしれない。でも、相手もつらいかもしれない。
それだけは言葉の中で選ぶべきだ。演出と言う言葉で片付けるにしても、
自分は納得できないドキュメントはあるだろう。真実の中に、例えば、細胞破壊兵器の落ちた何処かで、
心を折られて、敗残した世界、これは言う処を選ばなければ、その破壊兵器について、どれだけ知っているか
知らないかによって、蛮勇であったりしても、先、生きのこる為に、答えの導きにして、必要とされる事があるかも
知れない。

過剰になってはいけない。自制とは、そういうモノだったりするのだ。
助けて欲しい時に声を上げないのは、もっとも愚かしい。
一線を越える時、人は、本当に悪に なる……。俺が語る理性か……。

>成した行為にはそれ相応の対価が返ってくるのが当たり前だろう。

他人を冒涜すれば、社会性を疑われる。当たり前だ。ある程度の嫉妬で、
冗談に出来る範囲ならいい。実行して、問題になる時、自分のしでかした事の
大きさが判る。デバックとか助言が
自分のサイトなり持ってない人のコテハンはその場所では意味がある。
それを騙るという事は「何やったか判ってるのか?」となって当たり前。
唯一無二の名前なんて、基本無いのだろうけど、ただ一つ、

名前を呼ぼうとすることは、尊いのだ。