問いのない答え。あるいは問いによく似た答えの要らない何か
前回〈ネガティヴ・ケイパビリティ〉について書いてから「揺れながら考え続ける」について考え続けていました。
考え続けていたといっても四六時中そのことで頭が一杯だったわけではありません。むしろ忘れていた時間が大半でした。
それでいいのかもしれません。「ネガティヴ・ケイパビリティ」は、
でもあります。それに「ネガティヴ・ケイパビリティが何かわからない」のに居心地の悪さを覚えるようになったのは、Twitter(X)のタイムラインで何回か見かけてからです。
企画展「あ、共感とかじゃなくて。」で最初にこの言葉を知ったときは、帰って調べたら
と引用紹介されているのを見つけて、それで十分でした。ここに「考える」要素は含まれていません。
もう少し知りたいと思い別の本を手に取ったら「揺れながら考え続けること」とあり考えさせられるようになったのではないか。今となってはそんなことを考えています。
おそらく答えは出ないでしょう。好奇心から始まった読書が今や「本の記載が正しいかどうか」という問いにスライドしてしまっています。これは「自分の問題」とは思えません。
心情的にはどうにも気持ち悪いのですが、このまま置いておくことにしましょう。しかし置いておいたらもう揺れません。これは「わからなくていい」と開き直ることと何が違うのか。
とは思います。ではこの2つはどう違うのか?
「考え続けよう」と号令をかけること
「ネガティヴ・ケイパビリティは、何かに安易な落とし所に考えを落ち着けず、揺れながら考え続けることです。」と記載すること
わかりません。それに私にとってこの問題は今や「自転車置き場の議論」めいてきました。
いつかこの判断を訂正する必要が生じるかもしれません。そのキッカケを「訂正可能性の哲学」では「誤配」と表現していたように思います。難しい語用をしているように見えますが要は単なる偶然のことです。
偶然頼みはいかにも頼りないのですが、この話はいますぐ対処したい話でもなくなったのでここで終えることにします。
私の「考え続ける」やり方はこんな感じです。再開の余地を残して散らかしておき、またすぐ手に取れるようにしておくことです。何がキッカケになるのかはわからないのですが。
※ヘッダ画像はBing Image Creatorで生成
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