「正解を知りたい気持ち」と「正解を知る覚悟」
はじめに
「ファスト映画」についてこれまで何回か書いてきて、次は「ファスト教養」に話題を広げたいと考えていました。タイムリーなことに考える必要がある場面に直面したので、書き始めます。
「正解」を追求しない姿勢
「まず正解を教えてほしいんですよ」
ある日、面と向かってこう言われました。分かっていないからこれから調べようというところでした。分かっているなら苦労はありません。
調査のあと、少ないながらも分かったことをまとめたかったのですが、これも一向に進みません。
どこかで読んだような話だと思い既読の本から探し出し、『映画を早送りで観る人たち』の「"正解"を知りたい」に見つけました。
仮に相手がこのように考えていたとして、大きなすれ違いが2つありました。まず私は"正解"などない状況だと考えていましたし、欲しかったのは同じ状況に対する異なる解釈でした。
どうにも話がかみ合わないはずです。
ゾウの寓話から考える「正解」の相対性
「誰もが同意する"正解"」が存在する問題は多くありません。境界条件は曖昧で同意が必要な相手も定かではありません(まさか全人類というわけにはいかないでしょう)。同意を得られたとしても何に同意したのかおどろくほど一致しないものです。
人間は神の視点を持っていないので、一人一人が把握できるのは問題のごく一部です。インドの「群盲象を評す」という寓話が平易に表現しているので、Wikipediaのあらすじを引用しておきます。
余談ですが、私がこの寓話に初めて触れたのはシステム開発に関する翻訳書でした。Wikipediaが紹介している日本での使われ方は「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」のようで要点を外しているように感じます。とはいえ出典が約20年前の国語辞典なので当時はそのような意味だったのかもしれません。
正解(全体像)に近づくには複数の視点の情報が必要だと考えます。二人の人間の意見がまったく同じなら、一人はいてもいなくても同じとも言い換えられます。
「正解」は主観的な願望の投影?
ゾウの寓話では全体像が一匹の動物なので誤解がなくなれば「ゾウ」だとみんなが同意するであろうことは想像に難くありません。しかし、全体像が形のないものだったりすると、みなそれぞれの立場で都合よく説明・解釈することがままあります。
いわゆる顧客が本当に必要だったものです。
誰も「正解」を言っていないことがあるのです。「正解」を説明しているように聞こえる言葉は、「正解」そのものではありません。得てして理想・願望の投影だったりします。
何かを「正解」だと強く主張している人がいたら、その人の立場に立ってみてその「正解」によって何を隠したいのか想像してみるのもおもしろいかもしれません。
私などコミュニケーションが不得意かつ面倒くさがりなので、"正解"をしつこく訊かれたら、相手が満足しそうないい加減な答えを返してしまいそうです。内容がなんであれ、小さな「正解」で全体像を覆い隠せば聞き手を「わかった気持ちにさせる」役には立つでしょうから。
逆に「正解」を教えてさっさとその通りに手を動かしてほしい人もいるでしょうから、冒頭の質問は聞く相手が悪かった(お互い相性が悪かった)ということなのかもしれません。
おわりに
まず正解を知りたいという気持ちはわかります。しかしそれを外に求めたとき与えられるものはなんでしょうか。
分かった気持ちになれる断片的な情報でしょうか? 聞いてもよくわからない総体的な情報でしょうか?
正解を知りたい気持ちを鎮めてくれるのは、どちらでしょうか? 己の無知に絶望したくなるような「正解」を受け止める覚悟はできているでしょうか?
※ヘッダ画像はBing Image Creatorで生成
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?