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個展「無限スクロールの終わる夜に」の制作プロセス

2018/12/2まで開催の個展の関してのコンセプトテキストで主にトークショーでの内容の一部になります。”目の前の風景よりも、スマホのディスプレイを見ている” その事実を制作のプロセスに取り入れています。

「死から不死へ」から「無限スクロールの終わる夜に」

前作「死から不死へ」はインターネット上に関する死に関する情報を収集することで、死のコレクション化つまりは、眺めるものへ変化することで逆説的に不死の完成後の世界を浮かび上がらせようと試みた。それは、セカイ系に近い傾向があった。セカイ系とは、私とその周辺の小さな関係性の問題が中間項を挟むことなく、世界の危機といった大きな問題に直結する作品群のことを指す。具体的には、エヴァンゲリオンや最終兵器彼女といったマンガやアニメ作品を指しています。私が問題にした不死も、たまたま見た雑誌で「不死の技術」について書かれていたことが切っ掛けになっています。いつか「不死」の技術はできるかもしれない、けれども想像しにくいところに「不死」がありました。


「Profiling 死から不死へ」2015

今回の展示タイトルの「無限スクロールの終わる夜に」は、たまたま聞いていた、チャットモンチーの曲名「世界が終わる夜に」をヒントにしていて、あー世界は軽く終わるのかという印象です。「無限スクロール」の方はWeb関係のデザイナーをしていて、トレンドとして無限に読み込みできるスクロールページが多く採用されていた。今作はSNSで見たイメージを使用して制作しています。特にTwitterでは日々何かしら炎上している、何万人がそれを目にしても次の日にはまた別のムーブメントに移り変わって行く。例えば、消費税20%のニュースの方が生活に直結する、しかし実際は、実際は日産のカルロス・ゴーンの問題の方が瞬間風速最大で通り過ぎて行く。
これは、マスメディアで注目された報道写真に対して、SNSの写真は大きな話題を産むけど、それ以上の速さで記憶から消えていく、イメージの氾濫は同時に短命であることを意味している。そういう意味で、無限スクロールが続いているうちはイメージは短命で、それが終わるときは別のシステムに変更されていることを意味する。それは、もしかしたら不死のシステムかもしれない。不死とは閉じた円環を作ることで、死が生まれてしまっては行けません。その存在は、地球に住む生命がある種、地球から本当の意味で自立した瞬間かもしれません。

制作のプロセスとアウトプット

作品では、Twitterで見かけたイメージで興味を持った画像を収集している。テレビも新聞も見ない、ニュースはニュースメディアをフォローしてtwitterから情報を取得している。もしくは、何か気になることがあると、Twitterを使って検索し原因を特定する。例えば渋谷で働いている関係から、駅に向かうと恐竜のカッコの人物が数人で出てくる。何事だと思って調べるとtwitter上では、どのメディアよりも先に取り上げている。これはハロウインだと。ちなみにハロウィンの5日前とか平日です。印象派は、画材道具の携帯性が上がったことで、室内から野外へと描く場所を変え街の風景を多く残している。また、ピカソのゲルニカはたまたま見た新聞の戦争にショックを受けて一気に書き上げた。現代では、スマホを持ってSNSで確認したりアップロード、保存してからパソコンやタブレットで絵を描く。人の脳の進化には、人と関わった数が関係あると言われている。現代人はだいたい150人ほど記憶できると言われていて、この進化は長く変わっていない。しかし、Facebookで友達の数を調べると150人以上いて、相手のことを思い出せない時は写真や投稿を見て思い返すことができる。脳を使う時にスマホとそのサービスを使うことで、現代をドライブしていると言える。作品でも同様に、テーマ、フォールム、色を決定するときに、必ずサービスやアプリを使って制作するプロセスを取っている。

技術的な背景でいうと、前作が1つのイメージに対して大量の画像を集めて重ねる作業を行った。そこには、中心にある平均化された被写体と、特殊な周辺という図式が生まれました。対して今回のイメージでは、1枚を繰り返し重ねたものが殆どです。というのも、前回が検索機能を使用したのに対して、今回はSNSを利用した点にあります。SNSは、基本的に拡散することが重要になります。それは同じものをコピーして拡散する機能であり、また、パクツイと言われるように流行したツイートをパクって自分のコメントかのように流すことで、数字を稼ぐことができる。つまりは、同様のイメージが何度も何度も流れることができる。そこから見えてくるのは、イメージが何度も流れ出会っていることです。しかもフォローとレコメンドから、観る人の傾向にあった画像が手元にくる。これは、繰り返し分析されるわけで、何かアクションを起こさない限りは外れることはできない。その中でも、今作では群衆に関するようなイメージを集めている。

デモが過熱してから時間が経ち慣れてしまったのか、気づいたら目にしなくなっていた。忘れ去られ無かったかのうように。ここでの被写体を具体的にあげていくと、就活生、北朝鮮のパレード、デモをしている人、国会の様子などになる。SNSはもともと個人の声を遠くの人に届ける思想から始まった。対して、群衆は入ってしまえば圧倒的な数の暴力の中に個人は消えて行く。もし、個人にスポットを当てても、次が来る15分後に忘れられている。そう考えた時に群衆に埋もれ、情報に埋れて行くプロセスに興味を持った。かつては、群衆を撮影することに対して、写真家の巷さんは、群衆の中に入って行くことは体をぶつけ体力を振り絞るものと言っています。しかし、現代ではや暴力よりも魅せるものに変わっている。今回の作品にも各地のデモについて集めていますが、どこかアイコニックな要素が入っていたり、国内なら渋谷や新宿といった人の目があるところで運動を起こしている。休日の誰もいない国会前に行く行為を考えると、ネット世代とそうではない世代の考えの違いもあると思いますが、絵として作りに行っているように思う。もちろん現場に行ったこともあります。中に入っても、お立ち台や音楽など、その内部にも観る構造ができているように感じられた。話を戻すと、繰り返し話題に上がった割に、忘れ去られて行くイメージに興味があって、そこから見えて来る「決断不能」になっている、つまり、話題や問題があっても知らない間に忘れていることに対する問いかけになっている。

個展情報はこちらから
KOBE 819 GALLERY企画 竹下想展 『 無限スクロールの終わる夜に 』
2018年11月23日(金祝)〜12月2日(日)
12:00〜19:00 26日(月)休廊 最終日は18:00まで 入場無料

ここまでスクロールしていただけて嬉しいので、間違いなく嬉しい。