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大野俊三という大鹿の記憶

あの頃、秋田豊は右サイドバックだった。センターバックには柔軟な奥野僚右と剛健な大野俊三が君臨していた。
奥野と大野のコンビは安定感抜群だった。1993年、鹿島アントラーズの最終ラインの輝きは金色だった。

根岸誠一の怪我で完全にチャンスを掴んだ大野、ハンス・オフトに見出されてドーハ組の22名に滑り込む。鹿島アントラーズからは黒崎比差支と大野俊三が決戦の地に向かった。

直前のスペイン強化合宿、大野の出来は散々だった。大野に与えられた背番号の22という数字がオフトの葛藤を表しているようだった。右センターバックである柱谷哲二のバックアッパーとして最後までチームを支え、そして悲劇を目撃した。

ドーハ後の大野は少しずつ調子を落としていく。いや、伸び悩んでいく。1993年、すでに28歳だった大野。急速に競技レベルを上げていくJリーグに対応するのは少しばかり遅い年齢だった。今よりずっと「年齢」が競技に反映される時代だった。

そしてフロントは大野に代わるセンターバックを連れてくる。元ブラジル代表であり、マルセイユ、ベンフィカの英雄、モーゼルを獲得したのだ。

しかし、モーゼルは峠を超えていた。そこにヨーロッパを席巻した剛健の面影はなかった。そして1996年。ついに大野は京都パープルサンガに移籍を決断する。京都では大量失点の波を抑える役割を果たすことはできなかった。決して大野個人のせいではないが、なぜかとても悲しい光景だった。

ファルカンにCBの素質を最後まで説かれ続けた秋田豊。大野が伸び悩んだこと、モーゼルの峠が過ぎていたこと、そして内藤就行の右サイドバックコンバートに目処が立ったこと、それらの要素で秋田豊という日本サッカー史の記憶にも記録に残るセンターバックが誕生した。

秋田はキャリアを順調に重ね、フランスW杯に出場、日韓W杯では「チームに必要不可欠なメンバー」として中山雅史と共にベスト16立役者の一人となった。現在はいわてグルージャ盛岡代表取締役オーナー兼代表取締役社長を務めている。

大野俊三。あの1993年の輝かしく明るい未来しかみえないような時間に彼はいた。Jリーグは急速に競技レベルを上げていった、秋田豊というスターも誕生した。けれどあの時代、踏ん張って時代を作った人がいるから今がある。大野もその一人。スタジアムから映る大野のシルエットはチームのエンブレムである勇猛果敢な鹿を連想させた。Jリーグ栄光の初代ベストイレブン大野俊三、永遠に語り継いでいきたい鹿島アントラーズ功労者の一人である。

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