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「今という時間と現代アート」≒「あの時代とその芸術」

(今日、最近知ったNew友人がNote始めましたってフェイスブックに出てて、読んで見たら浪江町のことで、ちょうど去年の今頃、私も楢葉町を中心に浜通りを少しずつ通っていたので、写真を見て記憶が戻ってきて、フォローしようとしたら、自分がNoteを去年2018年11月に始めようとして下書きに入れたまま全く進んでいないことに気づかされた。それが以下のこれ。公開することにします。)

ひょんなことから「現代アート」が稼業になってだいたい13〜18年。小さい頃から「街並み」とか「たてもの」が好きだったから、小学生の頃は漠然と「建築家」って考えていたのに、ずいぶん変化しちゃった。

実は2000年から米国に住んでいて、そもそも英会話がカナヅチだから1年限定で行ったはずなのに、強制的に「アート」の授業を取らされたりして、紆余曲折、17年間も米国に住んで、ここ12年間、ニューヨークに住んでいました。

去年から、嫁の仕事の関係で2年間、帰国することになって、ようやく故郷、ニッポンに戻ったんだけど、いわゆる「浦島太郎」状態で、それだけならまだいいんだけど、自分の生まれてからの26年の日本での記憶も断片的になくなってて、まるで日本から海外に単身赴任とかで初めて海外生活するのに近い状況で、でも周囲はそうは思わないからもうしっちゃかめっちゃかで。独り中だけ外国人状態。(だって生まれも育ちも日本だし、見た目もしっかりアジア人ですからねぇ)

で、この生活で見えてくることとか、そんな体験の中で生きるって、面白いなって思ったので、これまでの米国生活とアートも含めて忘れないうちにメモしようと思った。(44歳、記憶もダメになりますねぇ)

タイトルの意味は、とりあえず本業の「現代美術」「現代アート」「ビジュアルアート」「コンテンポラリーアート」とかのお話を書きたいので、今は「「今という時間と現代アート」≒「あの時代と芸術」 」としました。読む側にとってのゴールは、なんとなーくボワァーンって頭の奥からジワってわかったような気がしたら、それで最高です。「この蛇口の内部構造はこういうパーツが中についているから必ずここでキュッととまるんですよ」「へぇすごい!」みたいな1対1対応のスッキリした理解は無理で、とりあえずモヤモヤさせて放っておくといいと思う。だって、僕はそうやって英語も克服したし。(そして日本語が消えていった。。。)

モノを作る人が100人いれば100通りの作品が生まれるなって思うのですが、それは皆それぞれ背景が違うからだと思うんですが、例えば、ある2つの美術作品がどう見ても瓜二つなのに、意味が違うし異なる作品だと言われているものってあったりしますね。これってその各々の作家さんの制作してきた作品の歴史や作家さんの、作品の背景が別情報から見えてくると、アァーこれは違うんだねって見えたりする。作品はそれだけでストンと腑に落ちることはないものなんでしょう。

だから、このNoteはパブリックに個人的な話を勝手にしながらの自分のメモだけど、もし僕の作品を見ることになった時に、読んでみると、なにかが僕からの視点に近い方向で頭に浮かぶのかもしれないって思いました。美術作品ってそもそもどう見ようと見る側の勝手だし、僕もそうしているけど、なんか目に見えない双方向コミュニケーションとかってできるかもって。

題名の意味が見えてこないで終わった。。。