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中途半端な自分に慣れたい

「自分で決めたことは、最後までやり遂げる」というのが、今の社会で一つの美徳になっているように思います。

物事を目標達成まで根気強くやり遂げることは、責任感の表れであり、信用につながります。
その逆に、中途半端な状態で放り出してしまって、「やり抜くと決めた自分との約束を守る」ことができないと、自信も減ってしまいます。

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私は昔、研修医の生活に疲れ果てて本当にもう立ち上がれないという状況になる当日の朝まで、「いまここで投げ出したら、私の人生は何もかも中途半端になる」と思って、絶対に投げ出さないことに命を懸けていました。

「何もかも」って一般化しすぎではと今なら思いますが、そういう追い詰められた心境のときには、一つのことが物事の全てという気分になりがちです。

そして、命懸けというのは本当に生きる死ぬの話で、当時、私の直接には面識のない先輩医師が当直中に亡くなってしまった話を伝え聞き、次は自分の番かもしれないと私は本気で思っていました。過労死も覚悟の上という感じで、そのまま突っ走ろうとしていたのです。

死ぬ覚悟でやり続けるくらいなら、死ぬ覚悟で休養してから出直す覚悟を決めたらよかったのに。
でも、疲れ果てていると、自分の人生を根本的に軌道修正をする元気など出てきません。
死ぬ気で頑張るほうが、じつは省エネなのでした。

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結局私は、死にはしなかったけど満身創痍で社会復帰不能という中途半端な仕上がりで臨床を離脱し、お布団に籠って生き延びました。

せっかく医師を目指したのに、専門医を取れずに終わってしまったことは、私の中でずっとずっと心残りでした。
しかもその後、人生の方向転換をして新たに目指した文系の研究職でも、博士号を取れないままになっていて、こちらは今も大きな不全感の源になっています。

私って、それこそ何もかも、徹底的に中途半端〜!
でももはや、ここまでくると、中途半端であることを極めるしかないという逆説の境地に最近は達しています。(もちろん、極めるとしても、私の場合は中途半端に極めます。)

医者になるはずだったのに専門医資格も取れず辞め、博士課程教育を受けたのに博士号は無い。
やると決めたからには達成したい目標が、ほぼ常に未達成。

とはいえ、ここでゼロかイチかの白黒思考で終わらせない程度には、私も自分の中途半端に慣れてきました。

分かりやすいゴールに到達していないからといって、ゼロではない。
それはゼロも同然だと主張する人もいるでしょうけど、そんなゼロイチ主義は私の中では時代遅れです。

中途半端を自分なりに引き受け、肯定しようとする試みは、ゼロとイチのあいだにたくさんの魅力的な事柄を発見し、自分の価値観を新しく組み立てていく営みです。そこには、新しい何かを創り出しているときのワクワク感があります。

中途半端で、いつまでもスッキリできない曖昧さの中に、虚弱なままで生きる人生の味わい深い豊かさがあると感じています。
その具体的な話については、また今度!



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