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僕とプロ野球(近鉄バファローズ編)

僕はデマンドという者です。Die CommunicationsとPastwalkerという、活動ペースが虫の息クラスの2つのアマチュアバンドのドラムを掛け持ちしています。

普段はサラリーマンなのですが、片道1時間半くらいかけて通勤しているので、退屈しのぎにブログを書いてみようと思いnoteのアカウントを開設しました。
何を書こうかと考えると、まあ自分の好きなことが良いかなと思い、先ほどバンドに所属している旨をお伝えしたにもかかわらず野球の話を書いていこうと思います。

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僕はプロ野球が好きだ。
高校野球やメジャーリーグなども興味がないわけではないが、とりわけ日本のプロ野球(NPB)が好きである。今回は自分がなぜプロ野球が好きになったかを思い出してみたい。

「阪神ファン?」
「いえ、広島が好きです。でも昔は近鉄バファローズが好きでした」
関わりの浅い誰かと自分の間でこれまで何度も繰り返されてきたやりとりだ。
たまに何で近鉄なんだと言われたりすることがあったけどそういやなんで近鉄だったんだろう。

そもそも僕は小学3年生くらいまでは体育や休み時間におこなわれる手打ち野球かキックベースボールくらいしか野球に触れることはなく、ルールも母親に聞くくらい興味はなかった。
父親も自分をキャッチボールに誘ってくれたけどうまく投げられず(自分が左投げであることになかなか気付かなかったから)、良い印象すらなかった。

そんな僕が小学生の頃、2000年代前半までは夜の日テレ系列といえば巨人戦の中継だった。
その中継は大体7時から9時までの枠で、試合が終わらなければ9時24分くらいまで放送延長だったけどあんまりその延長の間に終わるケースを見なかった気がする。
でもあの24分間は、今考えると後番組の視聴者を野球ファン、いや巨人ファンにいざなう役割を担っていたように思う。

そんな日テレの思惑があったのかはともかく、僕は何となく巨人戦を通じて野球を見るようになり、実はほんのり巨人を応援している時期があった。1999〜2000年あたりの話だ。
僕の両親は野球をはじめとするスポーツに特段興味がなかったから、なおさら当然の流れだったのかもしれない。

しかも東京ドームという場所でおこなわれるそれは華やかで、巨人に心を惹かれている僕がいたのは(残念ながら)間違いではないと思う。

友達に借りた当時のパワプロで江藤か由伸のどちらを3番に据えるか迷っていたし、友達に借りたPCゲーム「高校野球道」でも「東京読売巨人軍」というオリジナルチームを作っていたし、2000年の日本シリーズ、いわゆるON対決では、巨人が勝つと家族のいない部屋で人知れず謎の小躍りに興じていたのも事実だ。

そして始まった2001年。21世紀。
僕はスポーツニュースを見ていてペナントレース開幕から打ちに打ちまくっているチームがあることに気付いた。
大阪近鉄バファローズだった。
タフィ・ローズ、中村紀洋というホームランバッターを中心として前年まで2年連続最下位に沈んでいたチームが健闘を見せ、上位争いを演じていた。

阪神タイガースが暗黒期だったのもあり、それまで自分の中で「関西の野球チームは基本的に弱い」という思い込みがあったが、徐々に巨人より気になる存在になっていた。
しかし当時のパシフィックリーグは今より人気がなく、自分の中の情報源はまだスポーツニュースくらいだった。

そんな中優勝争いが佳境を迎えるころには、多分同じような情報量であったであろう6年1組のクラスメイトの数名も近鉄ファンを自称しているようになっており、毎日の試合結果に一喜一憂していた。

ピッチャーが弱いチームではあったが、打線が申し分なかっただけに逆転勝ちが多く、子どもが心を惹きつけられるにはわかりやすかったんだろうし、自分もそうだったんだろう。

そして9月26日、マジック1で本拠地大阪ドームを満員に膨らませた近鉄バファローズは北川博敏の代打逆転サヨナラ満塁ホームランというマンガにもない展開でリーグ優勝を決めた。
決着が夜10時近かったこともあり小学生の僕はその瞬間あろうことか寝てしまっていたのだが、翌日はクラスメイトと喜びを分かち合った。
みんな近鉄ファンになっていた。

そして迎えたヤクルトスワローズとの日本シリーズ。
打力で勝ち上がったチームにありがちな事態であるが、ヤクルトのエース石井一久相手に大差の完封で初戦を落とし、2戦目は水口栄二とタフィ・ローズの2本の3ランホームランで取り返したもののその後はあっさり3連敗。
持ち味を発揮しきれないまま近鉄バファローズは敗退となった。

僕にとってショックだったのはその後のクラスメイトたちの反応だった。
彼らのうちのひとり、健太くんは今までの盛り上がりがウソだったかのように吐き捨てた。

「まだ近鉄ファンやったん?」

畜生のひと言だった。この瞬間、僕は生涯近鉄バファローズを応援することを決めた。
こんなぶりぶりざえもんのようなヤツらとはやっていけないと思った。


中学生になった僕はひとりでファンを続けていたが、2002年シーズンが開幕してしばらくして、僕はラジオでほぼ毎日近鉄の試合の中継をしていることに気付く。
これが僕の近鉄愛を深めた。
帰宅してラジオをつけると毎日試合の結果に一喜一憂し、試合のない木曜日(当時はマンデーパリーグと謳いパリーグは月曜日に試合を開催していた)には応援番組をやっていて、そこには一緒に近鉄を応援する仲間がいた。

中学生だったので頻繁にとは行かなかったが、大阪ドームにも足を運んだ。
京都から大阪まで、ひとり応援Tシャツを身にまとい、ケータイも持たされていない中学生。
それでもライトスタンドに行けば仲間がいた。2002年以降は優勝できなかったが僕が大阪ドームに行ったときの近鉄はいつも強く負け知らずだった。

ちなみにこの頃から阪神タイガースが星野仙一の監督就任にともない実力と人気を再構築してきていた。
同じ関西球団だから当初は嬉しくないわけではなかったが、しばらくして阪神ファンの友達に鈴木啓示とタフィ・ローズとジェレミー・パウエルのバブルヘッド人形の首を3つとももぎ取られた頃から僕は阪神が大嫌いになっていた。

そんなこともありながら、僕は「12球団で唯一日本一になったことがない」というレッテルをはがすために毎日近鉄を思い続けた。

しかし日本一の夢は想像しなかった形で途絶えてしまう。

2004年の6月頃、突如「近鉄バファローズとオリックスブルーウェーブが合併」というニュースが流れた。

僕は最初理解が追いつかなかったが、やがて「近鉄バファローズはなくなってしまう」ことと理解できた。「オリックス・バファローズ」というひねりもクソもない新しいチーム名に全身の血の気が引くのを感じた。

そんなとんでもないニュースが世の中を駆け巡ったが、当初は各所で合併反対運動が起きたり、堀江貴文氏が近鉄買収に名乗りを上げるなど、少なくとも合併は避けられるのではという思いもあった。

しかしいつからか潮目は誰かが言い出したNPBの1リーグ化という方向に変わりだす。
その中にいた巨人オーナーの渡辺恒雄という存在が、僕をいつのまにかアンチ巨人にしていた。

そして2004年秋、ストライキの末1リーグ制が回避されたが、もう合併反対の声はほとんど聞こえなくなっていた。2リーグ制が維持されることが決まりめでたい空気すら感じられたその記者会見の場。近鉄の選手会長・礒部公一が「バファローズを守れず申し訳ありません」と流した涙が虚しく光った。

まだファン歴数年の僕は涙すら出なかった。

やがて選手たちは新球団の楽天イーグルス、オリックスバファローズなどに散り散りになっていった。

気持ちの整理のつかないファンは近鉄難民と呼ばれた。
僕もそのひとりだった。

(つづく)

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