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じいちゃんの話

僕が中3の時、じいちゃんが死んだ。


その日、体育の授業で、跳び箱の前方倒立回転跳びを成功させた僕は、友人たちの前で歓喜のマウンテンゴリラになっていた。その日は朝から調子が良かった。朝たまたま見た星座占いは自分の星座が一位を取り、数学の小テストも満点を取り、挙げ句前方倒立回転跳びの成功。僕は必然のマウンテンゴリラだった。そこへ担任の先生が体育館に入ってきて、マウンテンゴリラを呼び止めた。


そこから、じいちゃんの亡骸と対面するまでの道中のことを思い出せない。何をして、何を考えていたのか。学校から病院まではどうやって行ったのか、向かう途中当時狂ったようにハマっていた「太鼓の達人ぽ〜たぶる」を起動させたのかさせてないのか、思い出せない。
僕は冷たくなったじいちゃんの前で、ゆっくりと泣いていた。人生で初めて死に触れた瞬間だった。じいちゃんは眠っているように見えた。



じいちゃんの名前は、巌(イワオ)。
巌という漢字には「大きな石」という意味がある。じいちゃんはその名の通り、頑固で見た目も石って感じ(ポケモンのイシツブテに似ている)で、賢くて茶目っ気のある人だった。
うちは二世帯住宅だったので、僕はじいちゃんのそばで育って、共に暮らした。何度も喧嘩したし怒られたし泣かされたけど、じいちゃんのことが大好きだった。


じいちゃんは、気胸という病気だったこともあり、朝から晩までほぼ家にいた。僕の覚えている限りじいちゃんの生活は、庭の手入れをするか、野球中継を見るか、新聞や本を読む。あとはずっと株をやっていた。じいちゃんは個人投資家だった。新聞の株式欄と永遠に睨めっこをして、何やら数字のメモを取り、じいちゃんの部屋は新聞や経済書や数字で溢れていた。学者みたいでかっこよくて、わからないことは何でもじいちゃんに聞いた。よく壊れたおもちゃも直してくれた。それも、簡単な修理だけじゃなくて、モーターとか機械の部分も直してくれるのだった。


そんな普段の一面とは裏腹に、じいちゃんの性格はなかなかぶっ飛んでいた。


じいちゃんは昔ヤンキーだった。15歳からタバコを吸って、それから欠かさず1日に3箱吸い続けた。やばすぎ。浦安鉄筋家族の大鉄かと思った。そのせいで40代で気胸にかかり、呼吸機で高濃度酸素を常に鼻から肺に送る生活を余儀なくされた。僕が生まれた頃には、トランクみたいにキャスターのついた呼吸機を、いつもゴロゴロと転がして生活していた。


じいちゃんは学生の頃、他校に乗り込んでは同じヤンキー相手に喧嘩をしまくっていたらしい。親戚の間では有名な話だ。クローズかと思った。ボクシングもやってて負け無しだったらしい。それはずるい。格闘技やってる人って素人相手に喧嘩しちゃいけないんじゃないの?ヤンキーすぎ。絶対仲良くなれない。


そんなヘビースモーカーボクシングヤンキーの実家では、馬、豚、牛、ヤギ、鶏を飼っていたらしい。アルプスの少女ハイジだった。休日は馬へ跨り、川原を颯爽と走り抜けていたらしい。ハイジ馬にも乗れんの。いよいよキャラが渋滞してる。老後は1人で個人投資家。社会人時代何やってたのかワクワクする。大物感すごい。プロジェクトXで取り上げられる社長のサクセスストーリーみたいになってる。


社会人時代はというと、川崎重工のどこかの部署の部長だったらしい。うんまぁすごい。でもなんか拍子抜け。もうちょい大物であれ。それかツッコミたかった。いやケーキ屋かい!どんな流れ!?とか言いたかった。


他にも、ハイジぃは運転がとにかく荒くて、メチャクチャ狭い道幅を無理矢理Uターンするし、いつも法定速度ギリギリを攻める。たぶん車を馬と勘違いしている。結局事故を起こすことはなかったが、擦り傷やへこみで車体はいつもぼろぼろ。じいちゃんの車に乗った人は、頭上にある手すりに本能的に必ずつかまっていた。
更に、運転中に車のドアを開けて、車道によく痰を吐き捨てていた。やばすぎ。じいちゃんは病気のせいでよく喉に痰が絡んだ。普段はいつも持ち歩いている痰壷に痰を吐くのだが、運転中はなぜか車道に痰を捨てるのだった。それも窓からではなく、わざわざドアを開けて。病気とは言えやばすぎ。あの頃まだ倫理観の育ってない僕でも、子供ながらにこれはダメなことだと感じていた。後方を走ってた車はたまったもんじゃなかっただろう。目の前の車から老人の痰が飛んでくるのだ。今までよくトラブルにならなかったな。シンプルに汚い。はよ免許返納した方がいい。
それでも、じいちゃんの車にはよく乗った。塾や習い事の送り迎えをしてくれて、休みの日は僕とばあちゃんを連れ出して美術館に連れて行ってくれた。あれは今思えばじいちゃんとばあちゃんのデートだったのに、やかましいガキんちょも一緒に連れてってくれた。とにかく、事故を起こさないでくれてありがとう。


僕はそんなじいちゃんのちょっとぶっ飛んだ行動を目の当たりにしても、優しいじいちゃんを嫌いだと思ったことなんてなかった。


いや、一度だけあった。あれは未だに許せない。


小学校の頃のある時分、僕は泥団子研究家だった。寝る間も惜しんで研究に研究を重ね、遊びも習い事もそっちのけで、他のライバルを蹴散らして、遂に完璧な丸さと最高のツヤを兼ね備えた究極の泥団子

「a Dorodango」(ア  ドロダンゴ)

を完成させた。それからというもの生活が一変。一躍泥団子ドリームを手に入れた僕は、酒池肉林、金玉満堂の贅沢三昧。友達や家族や近所の人にまで泥団子を売り捌いた。
そんなある日、ザリガニ飼育係の重鎮、天野くんから泥団子の注文が入った。彼には以前、アキレス瞬足という靴を徒競走の際に借りたことがあり、大きな恩があった。何としてでも最高の泥団子を献上しなくてはならない。僕は作業に取り組んだ。今回も我ながら惚れ惚れするような球体が出来上がり、あとは仕上げのツヤを出す為に一晩外で寝かせておかなければならないので、家の玄関の脇の踏まれないような所に置いておいた。
次の日の朝、泥団子は潰されていた。明らかに誰かに潰されていた。邪魔だからどかしたとか、うっかり潰してしまった感じでなく、もうぴっっちりと、綺麗に潰されていた。犯人はじいちゃんだった。何で潰したのか半狂乱になりながら聞くと、じいちゃんは「なんだか潰したくなった」と言い放った。泥団子研究家大泣き。あんなにじいちゃんを恨んだのはあの日が最初で最後だった。じいちゃんは謝ってた。それでも、潰したいという好奇心のみで潰されたことがどうしても許せなかった。
ただ今思うと、そんな好奇心に負けてしまう程、あの泥団子は泥団子としての完成度が高過ぎた。美し過ぎたのかもしれない。なにせ、あれは完璧な丸さと最高のツヤを兼ね備えた究極の泥団子「a Dorodango」だった。


そんなことがあった数日後、じいちゃんが家の洗面所の洗面器で小便をしている場面に遭遇した。まじ何してんのほんとに。風呂上がりの濡れた体で、体を上手に傾けてしていた。「何でそこでおしっこしてるの?」と聞くと、「トイレまで行くのがめんどくさいからだよ。お母さんには内緒にしてな」と言われた。相変わらずぶっ飛んでいて、小学生の僕には理解不能だった(今ではほんの少しわかる。身体濡れててトイレまで距離あって緊急時ね、わかるよじいちゃん。数年後試しに俺もやってみたよ、悪くなかった)。僕は「わかった。内緒にする」とだけ言って扉を閉め、そのままその足で母さんにチクった。泥団子研究家の逆襲。普段からじいちゃんの味方だったが、裏切った。じいちゃんは母さんに叱られていた。


ここには書ききれないが、他にも色んなことがあった。
そんなじいちゃんのそばで、僕はすくすくと育った。


急に話は重たくなるが、うちの家庭は荒れていた。僕が中学に入り両親が別居するまで、親父に酒が入った夜は家の中が戦争だった。
じいちゃんは化け物になった親父と、いつも戦ってくれた。一度、親父がじいちゃんを突き飛ばし、じいちゃんが階段を転げ落ちたことがある。それでもじいちゃんは負けずに立ち向かっていった。悔しかったと思う。病気で歳もとってしまって、全盛期のヘビースモーカーヤンキーの姿は、もうどこにもなかった。僕も悔しくて、余計泣いた。悔しかったけど、じいちゃんはずっとかっこよかった。


僕が中学に上がってから、じいちゃんは急激に弱っていった。喉に絡む痰が取れなくなって呼吸が更に苦しくなり、自分の趣味の時間も作れず、車を出すこともできなくなって、痰を出す為にずっと胸にマッサージ機を当てていた。痰を吐き出そうとする大きな嗚咽が、いつも家中に響いた。それはじいちゃんの悲鳴のようだった。


ある日、僕は横になってぐったりしているじいちゃんに「きっと良くなるよ。大丈夫だよ」と声をかけた。するとじいちゃんは「もう疲れた。死にたい」と答えた。あんなに強くて、かっこいいじいちゃんから、初めて弱音を聞いた気がした。すごく動揺したのを覚えてる。動揺しながら僕は「そんなこと言わないで」とじいちゃんの胸をさすった。そうするくらいしか、僕には出来なかった。


じいちゃんは入院することになった。
これまでも何度か入院してきたじいちゃんは、入院後は必ず元気になって家に帰ってきていたので、僕はまたこれで元気になって帰って来てくれると思い込んでいた。でも、今回の入院は長くて、じいちゃんはどんどん痩せていって、明らかにいつもと違う雰囲気を醸し出していた。
お見舞いに何度も病院に通った。それでも、ばあちゃんや母さんに比べて、僕は行く回数が少なかった。母さんは僕を、お見舞いに行くようにいつも以上に何度もせっついた。その語気には、何か得体の知れない悲しみのようなものが孕んでいて、僕はそれをしっかりと肌で感じ取っていた。それでも信じて疑わなかった。じいちゃんは必ず元気になって、また帰ってくる。あのジェットコースターみたいな、じいちゃんが運転する車に、またばあちゃんと一緒に乗って美術館に行くんだ。行きたいと。


じいちゃんのお見舞いの日、これがじいちゃんとの最後の日になった。
酸素マスクを口に当てて寝たきりのじいちゃんは、もう会話ができなくなっていた。母さんとばあちゃんが、いつも通り生活用のタオルやオムツなどを病室の棚にしまって、じいちゃんに必要なものはあるかとか、何かして欲しいことはあるか聞いたり、最近の出来事を明るく報告したりしていた。一方僕は、涙が出そうになるのを堪えながら、苦しそうに呼吸をしているじいちゃんをただ見つめることしかできないでいた。
帰る時間になって病室を出ようとした時、僕はやっと、何かじいちゃんに明るく話しかけなくてはと思った。ばあちゃんや母さんがそうしたように、自分も悲しんでる姿なんか見せずに、明るく言葉をかけなくてはいけない。その意味を、帰ろうとしたあの瞬間に悟った。これが、じいちゃんとの別れになるかもしれない。
僕は僕の出来る最大限の明るい声で、「じいちゃん、また来るね!頑張ってね!」と声をかけた。するとじいちゃんは、力強く親指をグッと立てて、表情に満面の笑みを浮かべながら、僕にサムズアップした。あの時のじいちゃんを、今でも鮮明に覚えている。あんなに辛そうだったのに、入院する前に死にたいとさえ言って、今はもっと苦しい状態のはずなのに、僕に笑顔でサムズアップしたのだ。あれはまるで、これが最後の別れだとわかっているかのような、渾身の笑顔で僕を見送ってくれていた。そこには、あの頃のかっこよくて強い、じいちゃんがいた。僕を励ますように、勇気づけるようにして。
その数日後、じいちゃんは旅立った。




もうすぐ7月7日、七夕がじいちゃんの誕生日。
七夕になるとたくさん思い返すじいちゃんのことを、文字にして残してみたいと思った。noteが良いきっかけをくれた。
こんなに泣きながら綴って、まだまだじいちゃんのように強くはなれてないな。じいちゃんみたいに、孫でも他の誰かでも、強くて優しい背中を見せられるようなイケオジを目指したいです。にしても、じいちゃんはちょっとぶっ飛んでたけど。


七夕の夜空を見て、僕は織姫でも彦星でもなく、じいちゃんを見る。
じいちゃんとの日々を想う。
“時間は場所“だ。
僕はこの概念をとても気に入っている。










気がつくと、僕はじいちゃんの病室にいる


じいちゃんが僕を見て、笑顔でサムズアップしている


僕は今も、これからも、いつだって、じいちゃんと会うことができる。想いを伝えられる


元気でやってるよ

精一杯生きてるよ

また会いにくるね


僕はじいちゃんに、笑顔でサムズアップした

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