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赤ちゃん、うんちで両親を翻弄する | 心理学者とその夫、赤ちゃんを育てる<第1回>

[この連載について]
「心理学者とその夫、赤ちゃんを育てる」は、若手心理学研究者・渡辺伸子氏による、子育てエッセイです。
渡辺氏は2015年に博士号(心理学)を取得し、中部地方で特任助教を経験したあと、2017年4月より生まれ故郷の山形県にある東北公益文科大学に就職しました。
夫と結婚したのは2016年の末であり、現在は、昨年産まれたばかりの赤ん坊の3人で暮らしています。

地元への就職、結婚、出産と、一見順調そうにみえるキャリアですが、若手研究者でもある彼女には小さな気苦労もたくさんあるのです。
仕事・研究・育児・夫婦・地域生活と、さまざまなタスクに自分を見失いそうになりながらも、「さまざまな関係性を保ちつつ、研究を続けること」、または「研究を続けながら、日々の関係性を生きること」をこの連載では描いていく予定です。
新感覚子育てサイコロジスト山形お仕事夫婦生活エッセイ、ここにはじまります。


赤ちゃんと心理学とうんち

 朝の支度の難易度は3段階に分けられる。易しい順にレベル1~3としておこう。
 レベル1は、赤ちゃんがうんちをしなかったとき。レベル1のときは、予定より5分か10分、家を余裕を持って出られることもある。部屋の空気はクリーンで、私の気分は軽い。
 レベル2は、赤ちゃんがうんちをしたとき。家を出ようと思っていた時間ギリギリになってしまうことが多い。私が住んでいるのは東北なので、冬の吹雪の日や凍結の日にレベル2の事態だと車通勤とはいっても、かなり焦る。
 そしてレベル3は、赤ちゃんがうんちをして、なおかつそれがおむつから漏れて、赤ちゃんの服にもついてしまっているとき。赤ちゃんの着替えも必要なので、そういうときは遅刻を覚悟する。部屋の空気はくさく、重い。私の気分も重い。

 今朝は、レベル3を超えて、レベル4だった。赤ちゃんがうんちをして、そのうんちが赤ちゃんの服を汚した上に、私の服にもついてしまった。職場用の服だ。赤ちゃんだけでなく、自分も着替えてから家を出てきた。帰ったら服を洗わないといけない。そして、朝の支度の難易度を4段階に改訂しないといけない。

 私は普段、大学で心理学を教えている。大学院の博士課程を1年余分に時間をかけて終えた後、非常勤講師と普通のアルバイト(塾講師)に従事した。その後、1校目の大学で特任助教として働いた。「特任」というのは、任期付きという意味なので、任期が切れる前にがんばって転職活動をし、現在の大学で特別な任期の定めのない講師になった。

 現職の大学は出身県にあるので、地元に帰ってきたといってもいいかもしれない。雪が降り、コメと日本酒がおいしい。大学もあんまりない。人々は、春は山菜を採り、夏は採れたばかりの野菜を食べ、秋は芋煮を食べ、冬は雪かきをして暮らしている。
 今朝、保育園の駐車場で子どもを抱いていたら、白鳥がV字になって飛んでいくのが見えた。住んでいるのは人口10万人規模の市なので、普段の暮らしで特別に田舎を感じることはあまりないが、白鳥を見るとぎょっとするし、田舎なんだということを再確認する。目にする野生動物が大きいほど田舎、という定義が自分の中にぼんやりとある。小さい頃に親と見た白鳥を、今度は自分が子どもを抱っこして見あげている。白鳥を見なかった少し長い間に、私は博士(心理学)を取得した。

うんちの話はおうちだけ

 「大学の先生には見えないですね」とよく言われる。大学の先生といえば、男性で、中年かそれ以上の年齢というイメージが強いのだろう。ドラマや小説に出てくる大学の先生も、そのような設定が多いように思う。私は女性でどちらかといえば若手なので、大学の先生らしくないように思えるのだろう。
 一方、夫は私の家での振る舞いを指して、「大学の先生には思えないですね」と冷やかしてくる。自宅では私は、驚くほど古いTシャツを部屋着にし、赤ちゃんに向けて様々な意味不明なジェスチャーを繰り出しつつ奇声を発するなどしているからだ。

 子どもと楽しく過ごしたい。まだ言葉のわからぬ生き物とコミュニケーションを取りたい。そういう願いで振る舞うと、奇人のようになってしまう。あるいは奇人なのかもしれないが。だとしても、社会的には大学の先生らしく振る舞っているつもりだ。仕事の日には化粧もしている。うんちの話も外ではしない。家の中と、頭の中だけだ。

子育てに役立った心理学の勉強

 そういうわけで、家の外では心理学の先生なので、子どもが産まれたとき、いろいろな人から、「知識があるから楽でしょう」と言われた。毎回笑ってはぐらかしていたが、今日はこの問いについてじっくり考えてみたいと思う。この連載は「うんち」ではなく「心理学」がテーマだから、できるだけまじめに書こうと思う。
 子どもを育て始めて、「教科書通りだ!」と思うことと、「これは教科書になかったな」と思うことがあった。比率としては、6:4くらいだろうか。もちろん、教科書というのは心理学の教科書だ。教科書で見たな、という場面のほうが、少し多い。
 代表例としては、気質、原始反射、親としての発達、あとはピアジェの理論。ベレー帽をかぶった肖像写真で有名なフランスの心理学者・ピアジェの理論には批判もあることは承知の上で書くが、なかなかに「見えた通り」で、親として子どもに接していて納得感はある。
 ピアジェの理論では、うまれてからおおよそ2歳までが「感覚運動期」とされている。この時期の子どもは、体を使って物事を理解しようとしていると考えられている。触ったり舐めたりして、物理的な法則をだんだんに覚えていくらしい。10ヶ月になるうちの子どもも、あらゆるものを舐めまわしてここまできたし、いまも日々舐めまわしている。世界を、舐めることによって確かめている。最近は、下の前歯が生えてしまって、舐めていたものが削れていることもある(削れた分はどこにいったのだろう……)。

赤ちゃんと実存(あるいはもう一度うんちの話)

 教科書になかったことにも目を向けてみよう。具体的には、うんちのことは教科書に載っていなかった。物理的なことは心理学の範囲ではないのだ。うんちが漏れること、片付けなければならないこと、くさいこと。生後2ヶ月頃までは、うんちが出ないと気分が悪くなるらしく、子どもはよく泣いていた。大人は、うんちなどでは泣かない。めったに泣かない。しかし、小さい赤ちゃんは、うんちで泣く。これは教科書には載っていなかった。そして、大人がここまで子どものうんちに振り回されることも、教科書には載っていなかった。子どもと夫と過ごしている時間にうんちの話をする回数があまりに多いため、ときどき夫に注意される。
「子どもじゃないんだから、うんちの話ばっかりしないの」
 しかし、いまのところ、たった一人しかいない我々の子どもは言葉を話さないので、「子どもじゃないんだから」というのも変だ。子どもが大きくなったらきっと言うだろう、「お母さんじゃないんだから、私はそんなにうんちうんち言わないよ」と(関係ないが、この調子でいくと「心理学 うんち」の検索結果でこのページがトップにくるのではないだろうか。そういう検索でたどり着いた人がいたら、そもそもなぜそんな言葉で検索したのか聞いてみたい)。

 夜中の授乳がつらいことも、教科書には載っていなかった。春の、午前4時の台所のことを思い出す。白っぽく明ける気配が立ち込める台所の窓の前で、100ccやそこらの、ほんの少しのミルクを冷やしていた。あの眠さをどうすべきかも、教科書に載っていなかったと思う。しかし、自分が教科書執筆者だったとしても、どのように取り上げればよいのか見当がつかない。

 他にも教科書に載っていなかったことがあった。赤ちゃんはかわいいということ。顔がかわいい、存在がかわいいということは、教科書に載っていないことだけれども、経験や常識として知っていた(ベビーフェイスがかわいいというのは載っていた)。
 しかし、ぽっこりしたおなかがかわいいこと、後ろから見る首のすっとした感じがかわいいことは、知らなかった。知らなかったので、せっかくだから覚えていたいけれど、きっと無理だろう。成長して、目の前から消えたら忘れてしまうことの1つだと思う。

赤ちゃんはほんとうに「バブー」と言う

 総合的に考えれば、心理学を勉強したことで、私は予習した状態で子育てに臨めたといえるだろう。それは、心構えとしてよかったと思う。教科書で学んだことが目の前で次々に起こっていくのを見るのはとてもエキサイティングだ。子どもが「マー」と言った時には、あ、喃語(なんご)!子音の喃語だ!と大はしゃぎした。子どもは最近、意思がはっきりしてきた。主張があるような力強い音で喃語を発する。
 喃語とは、マーとかバーのような音を繰り返し発音することを言う。マンガに出てくる赤ちゃんもよく「バブー」とか「ンマンマ」とか言っていると思うが、あれのことだ。うちの子どもは8ヶ月頃、「バブー」と言っていたので、「そんな、マンガみたいなことが……」とびっくりしてしまった。しかしそれも一時的なことで、その後は「ンガー」とか「ンマー」のようなものが多くなり、さらに最近になると喃語をずっとしゃべっている状態になってしまった。あまりにも絶え間なくしゃべっているので、何という音が多用されているのかに注意を向けることができないほどだ。

 また、心理学を勉強したために、子育てに付随して生じる日々の小さな問題をすぐに解決に持っていくことができるのも便利だ。そもそも、「発達」という視点が自分の中に揺るがずにある。発達というのは、時間とともに起こる変化のことで、平たく言えば「大きくなる」とか「大人になる」というタイプの変化のことだ。「もう少し時間が経てば変わるだろう」とか「大きくなればそのうち直る」というものの見方を持っていると、イライラしないで過ごせる。

 先日、ハイチェアを買った。ダイニングテーブルと同じ高さの、小さなテーブル付きの赤ちゃん用のイスだ。せっかく買って組み立てたのに、うちの子どもは1週間でその椅子の上に立ち上がる楽しさを覚えてしまった。危なくて使い物にならない。しばらくは叱るなどして座らせようとしていたが、あきらめた。言葉の通じない生き物に何かをさせるのは手間だからだ。あきらめて、子どもの食事はいままで通り床に戻した。
 8千円のハイチェア……せっかく買ったのに……と思わないではないが、イスは6歳くらいまで使えるもののようなので、別にいいかとも思った。3歳くらいになれば、言葉で指示したら従ってくれるようになると思う。あるいは、「大人と一緒に食べたい」という気持ちが高まって、もっと早い時点で座ることのメリットを認識してくれる可能性もある。いま焦ってもしょうがないし。「そのうち座る日も来るだろう」と思い、イスはダイニングにおける物置と化した。

 親と子の相互作用についての考え方も、自分の中にある便利な視点だと思う。子どもと接するときに、「この子はこういう子だ」と思うことがある。その考えに基づいて接し方を変化させる。
 たとえば、「この子は言っても聞かない子だ」と思えば、強い言葉を使う、大きな声で言う、頭を叩くなどの方法を採用したくなる。しかし、子どもだってたまたまこの親のところに生まれてきただけだ。もっと別の家に生まれていて、優れた親から言われたのなら、すんなりと言うことを聞くかもしれない。親子だって相互作用だ。そう思うと、「他のところでは違うかもしれない」とちょっとだけ想像できる。うまくいかないなあと思うときにも、「まあこの程度の親だし、しょうがないよな。もっとアンパンマンとかオフロスキー(*註1)とか石原さとみとかに言われたらいい子にしてくれるのかもしれない」くらいに思える。

 相互作用だから、責任は半分だ。子どもも悪いが、こちらも悪い。親の顔を見てみたくなったら、洗面所に行こう。

心理学を知っていても苦労はある

 このような視点を持っているため、私はあんまり子どもに対して怒らない。「うるさいな、早く寝ろ」と思っているとき以外は、「しょうがないなあ」「うるさいなあ」「まあいいか」というところだ。どんなにめんどうでも、18年後には成人だし。発達的視点はとても役に立つ。
 だから全体として、心理学は有用だと思うことの方が多いが、一方でやはり教科書に載っていないこと、あるいは載っているけれど個別に応用するのが難しいこともある。

 たとえば、保育園は何かと悩みの種になりやすい。まず、保育園の先生たちに大学教員という自分の仕事をわかってもらうことが難しい。出勤退勤がはっきりしていない仕事だということ、夏休みや春休みなどの閑散期があること、研究活動の職務上での位置づけ、などなど。
 保育士の人も専門学校や大学など、生徒や学生として学校を体験してきているので、学校には夏休みや春休みがあることを知っている。ただし、その時期にも教員が働いていることはあまりわかってくれない。「春休みですか?!早く帰ってきてお子さんとたくさん過ごしてください!」と言われるのが結構つらい。
 研究もしたい。すごく立派な雑誌に投稿しているわけではないけれど、というか今は紀要原稿を書く程度しか元気がないのだけど、私は私なりに研究を進めていて、研究室でゆっくり読んだり書いたりする作業がしたい。子どもはかわいい。しかし、私は親になる前から心理学の研究をしてきたわけで、親になったからといっておいそれとそれをやめることはできない。
 仕事と家庭、あるいは親という役割の両立に悩んでいる人は多いと思うが、それぞれの職業に特有の悩みというものもあると思う。この連載では、大学教員、あるいは研究者という職業と家庭や親というもののバランスについて考えていきたい。

スーパーな研究者じゃなくても

 日本の研究力が落ちているのではないかということについて、国の研究費、各組織の人事制度、研究所や大学の運営方法などの面からはすでに様々に論じられている。もちろん、研究力で他の国と対等に勝負するためには、それらの面における問題点を改善することが必要だろう。そして、そのような環境の中で身を粉にして働いて、それで楽しいという研究者もいる。研究が恋人、という情熱的な人もいていい。
 一方で、研究者のプライベートな暮らしぶりについてはなかなか普通の実践を目にする機会が少ない。私が知りたいのは、スーパーマンやスーパーウーマンの超絶技巧子育て研究談ではなく、トップじゃないけど諦めてない、研究もしてるけどお父さんお母さんもしている、そんな人たちの毎日の話だ。
 国の研究力は山と同じで、頂上が高いならば裾野は広く、頂上が低いならば裾野は狭い、という形をしている。研究者であるからには、裾野でも貢献したい気持ちはある。そしてどんな職業でも、楽しみながら働き、家庭を持ち、大切にすべき人を大切にできると信じている。

親になる前の自分も抱えて生きる

 それにしても、親になってから、親になる前の自分を捨てさせようとしてくる勢力とずっと戦っている気がする。それはおばけのように境目が曖昧な敵で、具体的に誰かを身体的に打ちのめして解決することではないのが難しい。バイキンマンにアンパンチしたら解決するように具体的だったら楽なのだけれど、残念ながらそうではない。子どもはいるものの、心理学の本も読みたいし、普通の小説も読みたいし、健康維持のための運動も少しはしたい。捨てさせないでほしい、私自身を。

 心理学の教科書では必ずその理論が紹介されているアメリカの心理学者・エリクソンは、ライフサイクルを8段階に分け、それぞれの段階に課題があると論じた。中でも、青年期の課題として「アイデンティティの確立と拡散」を挙げ、自分のあり方を統合していくことが重要であると強調している。エリクソンを引用するまでもなく、過去の私があっての現在の私だし、現在の私が未来の私につながっている。現在の私が無理しすぎたり我慢しすぎたりすると、未来の私がぐちゃぐちゃになってしまう可能性だってあるのだ。現在の私にも、いい思いをさせてほしい。せめて、いい思いをするのをやめさせないでほしい。

 戦っているといえば、夫も戦っている。夫は、夫を親業から遠ざけようとする勢力と戦っている。夫の敵は強大だったため、夫は1ヶ月しか育児休暇が取れなかった。本当は半年取りたいと希望を出していたのだけれど、諸々あって1ヶ月に短縮した。時短制度の説明もなく、復帰後は普通に働いている。
 夫は私と比べて生き物の世話に向いている性格で、子どもの世話も半分以上やっている。世話の中身も丁寧だ。私は着替えのときに子どもが暴れて畳に頭をぶつけても、「あらあら」と言って作業を続行するが、夫はそうはしない。一旦作業を中断し、「痛かったね~ごめんごめん」と子どもを抱え上げて抱きしめる。丁寧だ(しかし、半分は私の血を引く子どもなので、頭をぶつけるくらい平気そうでもある。夫の大きすぎる愛への反応が薄い点においても、子どもと私は似ている)。
 こんなに子育てに向いているのに、時短や残業禁止の制度を適用してもらえず、家に帰るのは私より遅い。本当は夕方4時くらいに帰ってきて子どもと過ごした方がいいような人間なのに。
 子育ての敵は多い。これも、教科書には載っていなかった。

 でも、教科書に載っていないということは希望でもある。結果が確定していないということだからだ。敵は多い、しかし、勝つか負けるかは誰も確かめていない。負けると決まっていないということは、勝てるかもしれないということだ。
 私が過去の私を否定しないでも、みんなと協力して子どもを育てていけるように。夫が、人に邪魔されずにたくさん子どもと過ごせるように。
 教科書を読み込んで、教科書を超えた体験に飛び込む。まだまだ、私の心理学は楽しい。


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**【註】**

註1→Eテレの子ども向け番組「みいつけた!」に出てくるピンクのパーカーを着た成人男性のこと。「呼んだ?」の決め台詞が有名。

**【関連図書】 **

無藤隆・森敏昭・遠藤由美・玉瀬耕治『心理学 新版 (New Liberal Arts Selection)』有斐閣
E.H.エリクソン(西平直・中島由恵訳)『アイデンティティとライフサイクル』誠信書房
鹿取廣人・杉本敏夫・鳥居修晃編『心理学 第5版 』東京大学出版会
鎌原雅彦・竹綱誠一郎『やさしい教育心理学 第4版 (有斐閣アルマ)』有斐閣
松井豊監修、櫻井茂男・佐藤有耕編『スタンダード発達心理学 (ライブラリスタンダード心理学7)』サイエンス社


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