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留年と一人暮らし〜自分の歴史を音楽と振り返る⑧2004-06

シングルでミリオンセラーが出なくなってきたのがこの頃。平井堅、ORANGE RANGEやケツメイシ、倖田來未などがチャートを席捲した。レミオロメン「粉雪」もこの頃。「1リットルの涙」は特にハマったなあ。そんな当時、自分の世代は就活氷河期だった。すでにメンタルボロボロな自分の就活はどうだったか。そんなことを振り返ってみる。


留年と就活 
平原綾香「Jupiter」

大学を不登校になったのが大学1年の頃。休学とも退学ともならず(というよりそんな手続きをする体力がなかった)当然卒業に必要な単位が足りなくなり、そのまま留年した。大学5年になる時にようやく授業やゼミに少し出席できるようになる。ゼミでは、自分以外にも留年した同級生が2人いたから、そこまで孤独じゃなかったのは運が良かったかもしれない。それでも、自分より年齢が若い人たちが賑やかにグループになって参加している授業に単身乗り込んでいったから、周りの目をとても冷ややかに感じたし、誰かに頼ることもできなかった。

卒業が見えてきた大学6年の頃、新たなデカい壁にぶち当たる。就職活動だ。これまでに述べてきたように、自分は「20歳までに人生を終わらせる」つもりで生きてきた。それが行動に移す勇気を持てないまま20歳を超え「今すぐ人生を終わらせなきゃ」と思うようになっていた。そんな状況だから、就職するだの大学院に行くだのといった未来のことを考えることは全くできなかった。「もうすぐ死ぬつもりなのになぜ就活するんだ」と。

知らない若造ばかりのうるさい卒業式なんて辛かったので当然出ることもなく、後で事務所に卒業証書を一人取りに行った。結局、一切の就職はせず大学院にも行かなかった。というか決断できず時間だけが過ぎた。大学生で無くなった私は、それまでしてきた塾の講師のアルバイトだけの「フリーター」になった。それなりの大学を出てフリーターになるなんて相当の落ちこぼれしかいない、と思っていた私は、自分がたまらなく嫌だったし、誰にも自分がフリーターなんて言ってはいけないと堅く心に誓った。早く死にたい、でも行動に移せない。毎日が重くて、惰性でただ生きていた。

この頃よく聴いていたのは平原綾香と一青窈だった。平原綾香はこの「Jupiter」でデビュー。この曲はホルスト『惑星』組曲の第4楽章「木星」の旋律に歌詞をつけたものだ。自分がオーケストラ部出身だからか、クラシックとJ-popという交わることのない二つが融合する、まさに夢のように感じられた。平原のボーカルは高音のウィスパーボイスも好きだが、とにかく低音〜中音のドスのきいた響きが好き。ふらのの松山くんのイーグルショット(キャプテン翼)よろしく地を這う声がたまらない。

家族と離れたい 
一青窈「受け入れて」

家族との関係を少し記しておきたい。家族は父母と弟がいる。高校の時、なぜか弟は勉強するための部屋が与えられ、一方自分の勉強場所は大きなテレビのあるリビングのテーブルで父親が野球中継を見ている傍らだった。弟の方が予備校や習い事で家のお金をたくさん使っていた。なぜ弟ばかり、と親に聞いても、いつも適当に交わされていた。そんなものだから、「自分はJRのガード下に捨てられていたのを今の親に拾われた」と本気で思っていた(のちにそれは違うとはっきりわかることになる)。だから両親とも弟とも仲は険悪だった。

貯金が貯まっていたこともあり、20歳の時に一人暮らしを始めた。ゲイとしての自分を開放できる場所が実家には無かったから。そしてあんな家族とはとにかく離れたかったから。一人暮らしはいろいろと失敗も多かったが、ある意味「安心してひきこもることができる」のが一番大きかったように思う。

また、不登校のことやフリーターになったことは、しばらく親には言えなかった。しかし時間が経って隠しきれなくなった。その時、親には「俺もうすぐ死ぬからもういいでしょ」と吐き捨てた。親は自分のことを腫れ物に触るような感じになったような気がする。しかし、家族仲はとあるきっかけによって修復されるようになる。それはまたそのうちに書こうと思う。

「受け入れて」は一青が3人の友人から性同一性障害であることを初め様々な告白をされたことを切っ掛けに書いた詞だという。当時はそのエピソードを知らずに好きになった。また絵本のように進行されるMVは、突然心をえぐられる様な展開が待っている。MVを観ると、胸が切なくなる一方で、自分のことを歌ってくれているようでうれしい気持ちも湧き上がる。MVの主役は嶋田久作。


という感じ。
しばらくこうやって書いてきて、やはり20代はとにかく暗黒期だったなあと。次回は、そんな私が精神科に初めて行った話をすることができたらと思う。

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