琉球1966

何を隠そう実は私は帰国子女なのである。
ヨーロッパ? アメリカ?
いえいえ違います。 
復帰前の沖縄、米軍占領下の琉球政府です。
ちゃんとパスポートも必要だったし、当時の沖縄は車は右側通行で、うちの車は左ハンドルの日産ブルーバードだった。
当時国家公務員をしていた父親が日本政府から琉球政府へ派遣、という形で、私は幼少の2年間を沖縄で過ごしたのでした。

思えばそれが私にとって初めての、ちょっとした海外体験だったのかもしれません。
最初、うちの家族は那覇市内のアパートに住んだのですが、お隣さんは米軍の兵隊さん。 ある日隣の米兵さんが5歳の私を遊びに連れて行ってくれる、と。  連れていかれた所は嘉手納基地。 そしてヘリコプターに乗せられてプロペラがぶるんぶるん回りだし、そのまま…飛び立たずにエンジンストップ。 若干5歳にして米軍基地に入りヘリコプターに乗る経験をしたのです。
でもその間まわりに日本語の話せる人はいなかったはず。 我ながら一体どのようにコミュニケーションしたのだろう!? 幼児って凄いっ!

当時は日本政府の派遣であり、アメリカ人との交流も時々あったようだ。 英語の知識はあるものの社交性に欠ける父よりも、社交的な母のほうが結構パーティなどの対応をしていたようだ。 でも母はちょうど女学校時代が戦時中で敵国語の英語は学ぶ機会があまりなかった。 沖縄で英会話スクールに行ったりしたようだが、周りの人に助けられたにせよカタコトの英語でよくコミュニケーションができたものだ。 必要性って凄い!

そんな母は今日、8月13日、94歳の誕生日を迎えました。
おかげさまで元気です。

                          (つづく)

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