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「想像力」よりも「小説的思考力」を

 本稿は「出版人・広告人」という雑誌で筆者が2年以上連載を続けている文芸時評「文学へのリハビリテーション」の第26回として執筆したものです。しかし残念ながら同誌は定期購読のみで市販されておらず、この文章を読める人はきわめて限られています。
 私は今回の「新潮」と「新潮45」そして文学の役割と責任についての議論は公共性をもつものと考えており、この文章のネットでの同時公開を同誌編集部に打診したところ快諾を得ました。そこで、同誌掲載の文章をそのままnoteにて公開することにしました。
 副題に「批判」とありますが、もちろんこれは本来の意味でのcriticつまり積極的な意味での批判です。「新潮」という文芸誌は現在の日本でもっとも真摯に編集され、すぐれた作品が掲載される場であると私は考えています。だからこそ、今回の特集号に対しては「批判」がなされなければならないと考えました。以上が、この記事の公開にいたる経緯です。
 以下の引用部が掲載した文章の全文です(太字による強調はnote版のみ)。読者諸賢のご意見をぜひ賜りたいと思います。(仲俣暁生)

想像力」よりも「小説的思考力」を
ーー「新潮」12月号「差別と想像力」特集を批判する

 新潮社の激震が止まらない、というべきだろうか。「新潮45」休刊事件に端を発した騒動は、その舞台を文芸誌「新潮」が引き受けるかたちで延長戦が続いている。
 前回に書いた(※筆者注:この文章は「出版人・広告人」という雑誌の連載記事)ので詳細な経緯は繰り返さないが、「新潮」2018年11月号の編集後記で編集長の矢野優は、「新潮45」掲載記事の「差別的表現に傷つかれた方々に、お詫びを申し上げます」と述べ、その責任が同誌自身にも及ぶとした。
 この号には前回触れた高橋源一郎による緊急寄稿文も掲載されたが、批判対象をあらかじめ見下した、陰湿で不愉快なしろものだった。だから次の「新潮」12月号であらためて「差別と想像力――「新潮45」問題から考える」という特集が組まれたことを知ったとき、これでようやく一定の水準の論考が読めるものと期待した。
 この特集の冒頭には、前号の「編集後記」で「文学者が自身の表現空間である「新潮」や新潮社を批判すること。それは自らにも批判の矢を向けることです。小誌はそんな寄稿者たちのかたわらで、自らを批判します。そして、差別的表現に傷つかれた方々に、お詫びを申し上げます」と述べたことを受け、次の宣言文が掲げられている。

 七人の寄稿者による真摯な発言が、七色の虹のような言論の多様性を生むことを願う。
 
 同誌がそのように願った(私も同様に願った)期待は、しかし、叶えられなかった。この特集でレインボーカラーを織りなすことを期待された7名の寄稿者は以下のとおり。星野智幸、桐野夏生、柴崎友香、中村文則、村田沙耶香(以上は小説家)、千葉雅也(哲学者)、岸政彦(社会学者)。ただし岸はこの号に「図書室」という中編小説も掲載されており、「小説家」としても売出し中である。
 特集の冒頭を飾るのは、この連載でも何度か言及してきた「新しい政治小説」の旗手、星野智幸の「危機を好機に変えるために」という文章である。「新潮45」問題は星野の『焔』が谷崎潤一郎賞を受賞した時期とちょうど重なり、受賞式での星野の発言が注目されていた。その講演に「大幅な加筆と修正」をくわえたものだ。
 星野の言うことは明快である。「文学とは猛毒を薬に変えて差し出す表現」であり、小説家は言葉の「専門家」である。薬物の専門家が猛毒を薬とする際に調合を間違えないのと同様、小説家は「毒の力を保ちながら薬として使う」際の調合を誤ってはならない。
 ヘイトや差別敵表現は、まぎれもなく言葉の「毒」である。いまやそうした言葉の毒がメディアで垂れ流しになっている。そのなかで自分たち書き手も知らず知らず、差別する側の「当事者」になっているかもしれない。そこで星野は、こう言う。「私が今の文学業界に不足していると思うのは、被害者の側の声、マイナーな声を聞く、という姿勢です」
 事実、星野は2010年には写真家の高松英昭とともに、ホームレスのみが応募できる「路上文学賞」という文学賞を立ち上げている。「(当事者の)マイナーな声を聞く」ことが文学者の役割である、ということにもさして異論はない。
 だが、この文章は次のように締めくくられる。ここにはちょっとした飛躍があるように思える。
 
 決して正解はない、ヘイト的言説と表現の自由について、業界全体でもって、学び考え続けていこうではありませんか。専門家でもない人たちに、表現の自由と差別の線引きを恣意的に決められてよいのでしょうか。自分たちの場を自分たちでつくっていく自治の感覚が求められます。

 ひっかかるかのは「専門家でもない人たち」という部分である。文学賞の受賞パーティにおける講演であることを割り引き、かつ「専門家でもない人たち」とは非文芸部門の編集者や経営者、国家権力やその他の外的圧力を指すのだとしても、では「専門家」とそれ以外との線引きを行う主体は誰なのか、という疑問がなおも残る。
 後段の「自治の感覚」の主体がそうなのであろうが、線引きの信頼性を担保するのが「文学業界」や「文壇」のギルド的な相互承認システムだとすれば、「路上文学賞」とはいったいなんなのか。そうした、すっきり割り切れない部分が残るのだ。
 それでも星野智幸は、言うべきことを言っている。だが他の小説家たちによる寄稿は、期待していた水準を遥かに下まわるものだった。
 桐野夏生は「すべてが嫌だ」という題名どおり、起きている出来事全体への不快感を述べ、「新潮45」編集長であった若杉良作と新潮社社長の佐藤隆信を批判し、「おぞましい」と結論づける。気風のよさは感じるが、文学に対する省察はいっさいなされない。
 中村文則は「僕は新潮社から作家デビューし、新潮社で鍛えられた。仕事相手という意味を超え、それ以上に、僕にとって、本当に特別な出版社だ。まことに勝手ながら、僕は新潮社に当事者意識がある」と臆面もなく書いている。「当事者」という言葉に根本的な勘違いがあるうえ、インターネットと同様、文芸誌も公共の言論の場であるという意識がまったく感じられない。
 村田沙耶香に至っては自らが体験した差別的な言動についてのナイーブで幼稚な「反省」を語るのみで、読むべきところはなにもない。
 岸政彦は、この特集では文学者ではなく、反緊縮派の政策を提言する社会学者として発言している。だが中村同様、公共の誌面という意識もないまま、新潮社は「文芸とか文学と呼ばれる業界でもっとも権威ある出版社」などと書いている。また「新潮45」が「廃刊になっただけでもかなりほっとした」というくだりも目を疑った。
 柴崎友香はきわめて迂回したロジックながらも、真摯な思考を展開している。だが最後にドイツのジャーナリスト、カロリン・エムケの言葉を引用し、結論を丸投げしてしまった感がある。この連載でも以前に詳しく論じた、『憎しみに抗って 不純なものへの讃歌』の以下の部分である。

 憎しみに立ち向かうただひとつの方法は、憎む者たちに欠けている姿勢をとることだ。つまり、正確に観察すること。差異を明確にし、自分を疑うのを決してやめないこと。

 だがエムケが考察の対象としている問題は、中東地域からの大量移民が現実にドイツ国内で引き起こしている犯罪事件と、それに対する国民の怒り、そして移民排斥を主張する極右政党の伸長という現実のなかで起きている。それでもなお憎しみの連鎖を断ち切るにはどうしたらよいかを、性的マイノリティでもあり、被抑圧者としての体験をもつ立場から徹底的に考察したエムケの言葉を、上澄みだけすくいとるのはいささか不誠実だろう。
 またこの言葉は、むしろ今回の騒動において自制心を欠き、「正確な観察」も「自分を疑う」こともしないまま批判対象を悪魔化した、一部の「リベラル」な文学者に対しても向けられるべきではないか。
 星野もエムケの本から、憎しみとは個人的なものではなく、「集合的なものであり、イデオロギーという器に入っているもの」だというくだりを引いている。「新潮45」を発火点とする騒動は、あきらかにイデオロギーによって駆動されていた。だから文学者がすべきことは文学的想像力に対する自省などではなく、そのような憎しみの増殖には与しないこと、文学の領域に憎しみの火を持ち込ませない、その一点でよかったはずである。
 こうした特集の惨状を救ったのが、寄稿者のなかで唯一、LGBTの「当時者」であることをカムアウトしている哲学者・千葉雅也の「平成最後のクィア・セオリー」だった。この「論考」は、この問題が起きる以前の2018年7月22日から9月24日までの170回を超えるTwitterの「ツイート」に追記を添えたものだが、きわめて有益な「論考」になっている。
 たとえば想像力について、千葉はこう書く。

 グレーバーは、官僚制の暴力性に、想像力を対置する。左翼とは、想像力をもつことだ、と。僕は以前書いた「アンチ・エビデンス」で、やはり想像力に基づく信頼の重要性を言った。(官僚的な)エビデンス主義は、想像力によって信頼しあう人間関係を破壊するのだ。

 このツイートは、8月24日の段階になされたものだ。杉田水脈による「論文」(花田紀凱によれば談話を編集者が起こしたもの)が「新潮45」8月号に掲載され批判が高まってはいたが、この杉田「論文」を擁護する10月号はまだ刊行されていない。
 デヴィッド・グレーバーの『官僚制のユートピア』での議論が援用されていることからも明らかなとおり、杉田「論文」をめぐる議論は文学ではなく、行政や官僚制をめぐる政治的なものである、という前提で千葉は思考し発言している。政治の問題に「生きづらさ」という補助線を導入し、「内面化=文学化」させようと試みたのは杉田水脈のほうだ。
 千葉にはこの議論の真の土俵が文学ではないことは明らかだったから、「文藝評論家」と名乗るトリックスターが登場した後も、問題の在り処を一度も見失わなかった。いま問題とすべきなのは「文学的想像力」(他人の「生きづらさ」に対する!)などではない。「想像力」は社会的、あるいは政治的連帯のために必要なのだ。
 千葉がもっとも深いところで問題の在り処を見定めることができたのは、彼自身が性的マイノリティとしての「当事者」であったからだけではない。文学関係者がうっかり踏み込んでしまった「内面化」の罠から自由だったからだ。
 それでは「文学」の側は、この問題から何を学びとるべきだったろうか。かつて星野智幸は『俺俺』という作品をめぐって、大江健三郎からこのような言葉をかけられていた。
 
 本来、文学史には小説的思考力と小説的想像力のせめぎあいがあって、今、小説的思考力は少し衰弱している時代じゃないかと思う。安部公房はもういなくなったと思っていた。ところが、星野さんという若い小説家が、新しい小説的思考力をもってあらわれてきたのです。
(『大江健三郎賞8年の軌跡 「文学」の言葉を恢復させる』)

 ここで大江が正しく「小説的思考力」と名指しているものこそ、星野がいう「新しい政治小説」の核ではないか。いま文学に必要とされているのは、想像力の土台となるべき思考力であり、それを正確に展開するための知性のはずである。
(初出:「出版人・広告人」2018年12月号)

2020/9/4追記 *この記事を含めて2016-2020の45回分の文芸時評を収録した拙著『失われた「文学」を求めて-文芸時評編』(つかだま書房)が10月上旬に発売されます。Amazonなどではすでに予約可能です。

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