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道の名前――下北沢ノート②

 東京都内で何度も転居するうち、道の名前に敏感になった。何しろ同じ名前の道にあちこちで出会うのだ。分かりやすい例で言うと、たとえば環状七号線(カンナナ)という道路がある。西南地区の大田区臨海部から東南地区の江戸川区臨海部まで、東京の近距離郊外をぐるりとめぐる都道である。もともとは東京が市制を敷いていた一九二七年(昭和二年)に計画されたもので、一九八五年に全線がようやく開通した。

 かつての私にとってカンナナとは、都心から東側に向かって走ると必ずどこかで交差する、葛飾区と江戸川区を南北に縦走する幹線道路にすぎなかった。でもいまの私にとって、カンナナは自分の生活と直接的に関わる道である。下北沢の町のすぐ西側を走り、北上すると甲州街道、方南通り、青梅街道といった東西方向に通じる幹線道路と交差し、JR中央線の高円寺の東側を通り抜け、さらに北へ向かうと野方の町へとつながる。友人たちが住んだそれらの町に、私は何度もこの道をつかってかよった。もっとも、その遙か先に、かつて自分の生活圏だった江戸川区や葛飾区があることは、滅多に思い出したりしないのだが。

 東京にはほかにも環状六号線(カンロク、山手通り)や環状八号線(カンパチ)といった、都心部からコンパスで描いたような同心円状の幹線道路があり、郊外をあてもなく彷徨うときには、これらの存在によって自分のいるおおよその場所が測定できる。だが、あちらこちらで同じ名前の道に出会うのは、これらの環状道路の場合だけではない。

 「鎌倉道」や「鎌倉街道」、あるいは「鎌倉通り」と呼ばれる通りを、これまでに住んだ都内のあちこちの町(たとえば杉並区の阿佐谷界隈や、多摩の府中界隈)で幾度もみかけた。十二世紀末に鎌倉の地に幕府が置かれた後、太平洋に面したこの新しい軍都から、広大な関東平野の北辺にむけて放射状に三本の幹線道路(西から順に上道、中道、下道と呼ばれる)ができた。江戸期以後、これらは「鎌倉古道」と呼ばれ、本道のほか、いくつもの枝道がいまなお残っている。阿佐ヶ谷のあたりを走るのは奥州方面へ向かう中道の名残で、府中のあたりを走るのは信越方面に向かう上道の名残だろう。そして、いまの下北沢の住まいのすぐ脇にも「鎌倉通り」がある。

 近代都市東京の郊外住宅地・商業地としての下北沢は、昭和初期に相次いで開通した小田急線と京王井の頭線の交点に位置することで発展した。しかし、鉄道開通以前から下北沢という集落は存在した。二本の鉄道が交差してかたちづくる横倒しの「X」がいまの下北沢の基本構造であるのに対し、それ以前の下北沢は、何本かの道と川によって地勢がかたちづくられていた。

 まず道から行こう。下北沢の町の中心部は、茶沢通り、鎌倉通りという、南北に走る二本の道に挟まれている。


 茶沢通りは、商業地の中心部をかすめて低地を走る。その名の通り、下北沢と三軒茶屋の町を結んでいる。この通りの脇には、かつて川が流れていたという。その水流を埋め立ててつくったらしき、ささやかな遊歩道が、車道と並行して走っている。茶沢通りが小田急線の線路を超えて大きくカーブするスズナリ横丁のあたりからこの遊歩道を歩いていくと、森巌寺と淡島神社、北沢八幡宮の界隈に出る。鉄道が開通する以前の下北沢の中心地はこのあたりだった。現在の下北沢の町では、代沢三差路は南口商店街の終わりを意味するが、鉄道開通以前は逆に、ここから北はまったく寂れた地域だったという。

 鎌倉通りは、町の西側を尾根伝いに走る。通りの向こう側が代田で、こちら側が代沢である。通りの起点は京王線笹塚駅のやや南、玉川上水が露出しているあたりから、やや下ったところだ。すぐ先で井の頭通りと垂直に交差し、そのまま直進すると井の頭線の線路を越え、いったん急激な下り坂になった後、左に大きく折れつつ小田急の踏切を渡る。その後は尾根伝いにしばらく走ったあと、下り坂となり、緑道のある低地へと再び下りていく。かつては鎌倉から、あるいは鎌倉に向けて、ここを早馬が駆け抜けた高速道路だったのかと思うと、少しワクワクする。もっとも、この通りは鎌倉古道そのものではなく、起点となる三差路で右に分かれる道のほうが鎌倉古道の中道で、鎌倉通りはそこに通じる枝道だという説もある。

 西の鎌倉通りと、東の茶沢通りによって南北の軸がつくられるのに対し、東西の軸となるのは川である。いまでは下水の暗渠となっている北沢川(北沢用水)の上を、舗装された緑道が覆っている。この緑道にはあらためて人工の小さなせせらぎが作られており、花見の季節には多くの人で賑わう。だが、本当の川はその下を流れている。北沢川を越えると梅ヶ丘通り、その先が、かつては「滝坂道」と呼ばれた淡島通りだ。この道はかつて、周辺でもっとも早く舗装され、兵隊通りとも呼ばれた。駒場や代々木の軍事施設を結ぶ、軍用道路だったからだ。

 淡島通りからさらに南へくだると、三軒茶屋に到達する。国道246号線(ニーヨンロク)である。玉川電車が路上を走った時代には「玉川通り」と呼ばれたこの道の歴史も古く、神奈川県伊勢原市にある大山神社への参道を意味する「大山道」の名で親しまれた。三軒茶屋という地名の由来となったのはこの地に実際にあった三軒の茶屋で、はるか遠くにある神社への参拝客はこの地で一服したのである。

 滝坂道や大山道、鎌倉通りや玉川通り、あるいは兵隊通りといった、歴史にひもづけられた道の名前は面白い。反対に、環状七号線とか補助五十四号線といった名前は、そのような面白さを欠いている。「道」や「通り」は具体的なアクションを喚起するが、「線」はたんなる抽象概念である。道の名前は、その道が通過する町に対して私たちがもつ感受性の水準を、知らず知らずのうちに決定しているのだ。

商店街を寸断したもの

 今年(※執筆時、二〇〇八年)の二月に、下北沢界隈を走る小田急線の地下化にともなって生まれる広大な空き地の用途を住民主導で考えようという、「あとちの会」の催しに参加した。このとき、戦前からこの界隈にお住まいで、四十年にわたって「邪宗門」という喫茶店(作家の森茉莉がその晩年に通い詰めた店として知られている)を経営してきた方に、かつての町の写真をいろいろと見せていただいた。

 昭和初期の北沢川は、いまの姿から想像されるような小川ではなく、鬱蒼とした緑の木立をたたえた、立派な川だった。北沢用水という別名は、玉川上水からこの地域に水を導くためにつくられた水流であることを示しており、厳密にいえば北沢川も自然の川ではないのだが、長い年月の間に、用水路も立派な川へと変貌していったのだ。当時の鬱蒼たる木立の向こうには、特徴ある三角屋根の建物が見える。詩人の萩原朔太郎が住んだその家は、一九四五年五月の山の手空襲で焼失したという。

 下北沢の南の外れを東西に流れる豊かな水の流れを想像していたら、もう一枚、手書きの大きな地図を見せられた。「滝坂道」沿いにあった、この界隈で当時もっとも賑わっていた商店街の昭和十年~十五年頃の様子を、当時を知る人の記憶から書き起こした絵図である。「商店街」というと、鉄道の駅前から伸びるものばかりが想像されがちだが、近世以前の街道や参道がそのまま商店街となった場合も多い。滝坂道商店街はその典型である。

 通り沿いに並ぶ店の種類を書き写していくだけで、往時の賑わいが伝わってくる。「クスリヤ」「古道具ヤ」「カゴヤ」「大工」「ラジオヤ」、「洋裁塾」「新聞ヤ」。近くには「区役所」の文字も見えるし、「芝居小屋」もあったらしい。

 その絵図にはうすい線で、商店街を衰退に導いた二つの要因が描き込まれている。ひとつは「昭和20年5月焼失」の文字とともに波線で区分された、山の手空襲の被災地域だ。そしてもう一つ、当時はまだ存在していなかった、はるかあとの時代に生まれる道筋が重ね書きされている。滝坂道商店街の繁栄にとどめを刺したのは、鉄道の開通でもなければ戦災でもなく、東京オリンピックの行われる年を目指して建設された幹線道路、環状七号線だった。

 中世以来の歴史をもつ古い「道」や「通り」に沿って生まれた商店街が、「線」によって寸断され、以後、町の風景が一変した。そしていま、鉄道が生んだ近代の下北沢の町の象徴である北口商店街が、補助五十四号線という計画道路(その路幅は奇しくも環状七号線と同じ太さだという)によって、またしても寸断されようとしている。歴史は繰り返す。だが最初は悲劇で、二度目は喜劇として演じられる、と指摘したのは誰だったろうか。

 町と街とが微妙にニュアンスを異にする以上に、人が長い年月をかけて踏みしめてきた「道」や「通り」と、人為的に計画された道路=「線」とはことなる。東京オリンピックの年に生まれた私は「線」と呼ばれる道路とともに成長した世代だが、舗装された道路の下に、かつては土の道や通りがあったことを想像することぐらいはできる(緑道の下を流れる暗渠を想像することができるように)。

 「道」と「通り」、つまり幹線と枝道、そしてこまかないくつもの路地、それらが絡まり合って織りなす生態系が町であり、その集合体が都市であるはずだ。トップダウンの都市計画や地区計画もときには必要かもしれないが、道や通りの名前に息づいているその土地の歴史までもを、新しい道路や建物が奪ってしまうことは許されない。

「代沢」の誕生

 東京オリンピックの行われた一九六四年は、下北沢の町にとって大きな画期となった。かつては「下北沢村」「世田谷町大字下北沢」と呼ばれたこの界隈は、一九三二年(昭和七年)に東京市が一五区から三五区に拡大し、「世田谷区」が誕生した際に、東京市の一部となった。このときに北沢一~五丁目と改称した町のうち、一丁目と二丁目が一九六四年の住居表示実施により「代沢」と改称された(残る北沢三~五丁目には、あらたに「北沢一丁目~五丁目」が振り当てられた)。いまでも「代沢」地域に、「北沢」と名乗る店が残っているのはそのためだ。

 「丁」は「町」と同義である。しかし、いまでは多くの人がこの言葉を使わず、町名の数字と街区符号と住居番号を単純に組み合わせ、「北沢2の5の1」とか「代沢3‐7‐2」などと表記することが多い。道の名前と同様、町の名前も歴史的な文脈を奪われて抽象化され、自由自在に組み合わせられた。だが、そもそも「代田」の名は、ダイダラボッチの伝説から来ている。大きな沼があると、それは巨人の足跡に水が溜まったものである、という伝説が生まれることが多い。

 代田の界隈にもかつて沼があり、それがダイダラボッチ(ダイタボウ)の足跡であるという言い伝えから、この界隈を「ダイタ」と呼ぶようになったのだという(妖怪にちなんだ地名とは、なんてチャーミングだろう)。だが、代田と北沢の合成地名であるダイザワという言葉から、ダイダラボッチを連想することはもはや不可能である。

 現在の下北沢の町名は、一九六四年の住居表示を踏襲している。下北沢周辺の環状七号線と「代沢」という地名は、ほぼ同時に誕生したことになる。道と町は切っても切り離せない。この年を境に下北沢の「町」は「街」となり、「道」は「線」となったのではないか。そのような変化の延長線上にあるのが、いまの下北沢の商業地域の中心部に作られる新しい幹線道路「補助五十四号線」であり、それとともに進められる、下北沢(おもに北沢地域)の新たな地区計画である。

 下北沢の町はこれまでに幾度も、その姿や名前を変えてきた。もちろん、この先も変わり続けることだろう。だが、少なくともこれまでは、町が大きく変化するときには、それなりのわかりやすい理由があった。それに対して、いま下北沢で起きている「変化」は、あまりにもわかりにくい。

 新たな地区計画は茶沢通り、鎌倉通りの拡幅と、地域一帯の高層化を目指している。再開発のおもな対象となるのは、下北沢駅周辺の路地が入り組んだ商業地だろう。低湿地だったところに高いビルを建て、土地の価値を上げるのが再開発の常套手段だが、下北沢の駅周辺はもともと低湿地である。この界隈の地勢を決定づけた水の流れも、町の構造を規定している二本の道も、どちらも長い時間をかけてつくられてきた。

 未来を構想するためには、過去にも同じく思いを馳せる必要がある。いまこそ鎌倉通りを駆け抜ける早馬や、巨人ダイダラボッチの姿を想像すべきなのだ。

(下北沢ノート③につづく)

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