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シュメール神話的に見た「天気の子」

※Facebookで好評だったのでnoteにアーカイブ。

「天気の子」は、

シュメール神話と繋がっている説。

「君の名は。」もティアマトで気づきましたがね。やはり今回もか。

内容的には、なかなか重苦しいメッセージを渡されて・・
さぁそれを受けとめるか、無視するか・・
と言ったところ。

さわやかには書きません、書けません!

ので、トンデモ系アプローチから本質に迫ってみる。
ネタバレ注意とか知るかボケである。

神界監督は今回もさらに「ムー」(わたしもかなり読んだし、別冊もブックオフで見かけるとつい100円なら買ってしまうオカルト月刊雑誌)押しだった、相当なオカルトマニアだろうが、そこはわたしも負けてはらんなーーい🗿!

わたしのトンデモ説。
わたしの推察では、神界監督はこの映画のタイトルは「天気の子」ではなく「エンキの子」にしたかったはずだ👍。
ほぼ間違いありませんw

しかしそれではあまりにブッ込みすぎるため、令和1発目の日本民族暴露ものとしてグローバルエリートに狙われること必至なので、「天気の子」に変更したのだろう。

なぜって?
わたしの勝手な思い込みだらけだが、

では検証してみよう。

まず、「エンキ」とは、メソポタミア神話の神である。知識・魔法・淡水を司る神性をもっている。
この映画、ずーっと水がつきまとう。
ヒナが空を飛んだり雲が拓いたり、まるで魔法である。

雨や、大洪水で東京沈没、という物理的な側面あるけれど、実は「水商売」というキーワードもついてまわる。

ちなみに、エンキを象徴する動物は魚、惑星は水星。
そして豊穣と繁殖の神でもある。
「繁殖」ここ注目。

wikiのがわかりやすいので引用。

あるシュメール研究者の発言ーーー
「エンキに関しては、性のシンボリズムの興味深い変化が窺える。メソポタミアにおいては、土地は「水」によって豊かさがもたらされるとの通念があるが、シュメール人は、この「水」の神格化の対象・意味合いについて、女神ナンム時代の女性的な「生命を産み出す海」から、エンキ時代の男性的な「精子」へと、とらえ方を変化させている。たとえば、シュメールのある聖歌では、涸れた川岸にエンキが立ち、彼の水で満たした、との部分がある」と述べている。このようなエンキの男性的な繁殖・豊穣を司る神性については、配偶者である女神キまたは女神ニンフルサグとの、ヒエロス・ガモスすなわち「聖なる結合」との関連性も示唆されるところである。
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ヒナが雲の上で気絶しているとき、ヒナの周りを回っている水は、崖の上のポニョのごとくの、水の小魚にも見えるが、まぁどちらかといえば「精子」に見えないだろうか。

そして、エンキは死後の世界との関連がある神である。ヒナは神隠しに遭うが、雲の上でまだ半身半人状態で気絶していた。
そこにホタカが迎えに行く。イザナミを追ったイザナギは、変わり果てたイザナミを見て一目散に逃げていったが・・・
ホタカはヒナを必死に握りしめ、下界へ呼び戻すことが出来た。

神界監督の映画はかなりきわどい性の描写が多い。タブーからの脱却、を示唆しているものと思っている。
エロくなれ、ということではなく、この世は男と女の愛によってできているでしょ?それが輪廻をもって繰り返され、続いていくわけで、目を背けてどうするの?ということだ。

さて、その、禁断の欲(死から愛する人を取り戻した)を満たした代償は・・・

東京沈没。
※映画では東京しかうつらないが、東京だけでなく、世界が水没しているのだろう。

これは、あり得ないことではない。
わたしが聞けた、沖縄出身のあるおじいさんが見た夢では、門前仲町から沈みはじめ、2040頃までには、35メートルほど海抜が高くなる、と言っている。ほかもいるよね。

しかし、この映画、
人々はたかだか3年で、車、電車の生活スタイルから「船」のスタイルとなり、それでも元気に相変わらずの雨の中を生活しているのだ!
与えられた環境に、慣れてしまえばポジティブに生きている。

またエンキのはなしに戻ろう。

もひとつ、エンキは、
「大洪水から人類を護った神」なのだ!
シュメールの神話によると、エンキは人類が滅ぼされるべく定められた大洪水を生き延びるよう、助けを与えた。
ノアの方舟伝説に酷似したはなしがシュメール神話にもある。すなわち、ノアに作るように言ったのが、エンキなのだ。

もうこの、東京沈没のシーンが出てきたとき、
これ天気の子じゃねぇし!エンキの子にマチガイナイ!神界監督さすがっス!😭😭😭

と、ひとり感動した。

この世が変わることは、期待や不安、場合によってはかなりの悲しみを伴うだろう。
しかし、
「変わっても、なんとか生きていく。」
それが生命と言うものなのだよな。

そのなかで、何を優先するのか。

「大事なことの順番を間違えない」ことが大事。

高校生のホタカは、田舎の島を家出してきた。
しかし東京で見たのは、レールから外れた人間には風俗の呼び込み程度しか仕事がない現実。

中学生のヒナは、母を亡くし高校生と偽りマックでバイトして小学生の弟を育てている。
しかしバレてしまい、生きるため、割のいい仕事のために風俗で働き始める・・ところを、ホタカが救う。

映像も美しくキャラも可愛いから気づきにくいが、めっちゃめちゃ「底辺」「貧困」にスポットを当てた映画なのだ。

その中で誰も救わず手を差し伸べず、知らぬフリをして消えていく命を、真理の正義の力で連れ戻す。リアルではきっと連れ戻せないケースが多いだろう。だからからこそ、この映画では奇跡とともに連れ戻し、観客をホッとさせてくれる。

しかしその代償?は。
その他多くの人々に、東京沈没、というかたちでふりそそぐ。

しかし、ホタカやヒナにとっては、そんなことはどうでも良い。自分たちは、お互いさえいれば、世界がどうなろうが知ったこっちゃない。

「大事なものの順番を間違えない」

これにつきる。
ただし、愛にもとづいた、順番だ。

経済格差が広がってきているこの日本社会が、一人ひとりの生活を守るのが精いっぱいで、大切な他人の生命の安全すらカバーする余裕のない時代になっている。
リストラ、年金破綻、介護、教育ローン・・誰かを助ける?自分で精いっぱい。
この映画は、そんな欺瞞に満ちた社会システムの機能不全を描写している。

「千と千尋の神隠し」も、見方によっては風俗で働かざるを得なくなった女の子、のようにとれる映画との考察が多々あったものだ。

ヒナは「雨を晴れにできる」スピリチュアルな力を使い、人を喜ばせ、お金ももらえて生活も楽になった。
しかし、その代償として命を削っていることになかなか気づけなかった。それには「人柱」という重い言葉が使われる。

他人の心身をケアする仕事につく女性というのは、歴史の裏に様々なかたちで数多く存在していたが、しかしその労苦は、とてもいびつなヒエラルキーの中で成り立つ社会において、最も底辺に位置し、多くの場合報われることはなかった。
そんな役回りをするしかない、底辺にある人々を、私たちを含む社会は、まるで彼らが存在していないように扱った。

若者の死亡原因、1位が「自殺」な日本。
システムのストレスという歯車に押しつぶされた悲しき亡骸を、誰もが目にしていながら、無かったことにして通り過ぎる。「可愛そうに。でも自分でなくて良かった。自分の子でなくてよかった。」祈りの日々である。

そんな、
誰かの犠牲の上で成り立つような社会で良いのだろうか。この「狂った社会」って、なんなんだ?ということを、この映画は投げかけている。

新海監督の答えはこうだ。

「そんな社会、ぶっ壊れてしまえ。水に流してしまえ。」

それが、東京沈没に現れている。

誰でも、一度くらいは思ったことないだろうか。
大地震おきてしまえよとか。
放射能で一回滅んでしまえとか。
※東京につづく長雨は、逃げようのない、ふりそそぐ放射能のことかもしれないな。

と同時に、

「ぶっ壊れたとしても、その変わった世界を、力強く、愛で生きていくから、僕たちは大丈夫!」

それも合わせて、言っている。

この映画には、
「君の名は。」の瀧と三葉もでてくる。
同じ世界のはなしだ。
瀧が三葉を救ってしまったことも、世界沈没の代償となって現れたのかも知れない。

ちなみに、君の名は。も、天気の子、も、2021年の設定である。

三葉は三年前に戻り救われた。
ヒナは、18歳と偽り、実は15歳、つまり、三年後を生きていて、現実の15歳に戻って来た。

前後3年程度のブレをもちながらも、新海監督は、

2021年が何の年としてウワサされているのか間違いなく知っている。
それがはじまりであり、その波は2027年か2028年まで続くとも言われている。

それまでに、わたしたちそれぞれの人生において、やり残したこと、
心残りなことは、ないだろうか?
まだまだできることは、あるはずだ!

「愛にできることはまだあるかい?」


問題の一部であり続けるのではなく、解決の一部でありたいと思っています。