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なぜ「慈愛」という言葉を使っているのか

年明け最初の投稿が遅くなってしまいました。

2022年、あけましておめでとうございます、今年もどうぞよろしくお願いします!

ブログを出そう出そうと思って先延ばしにした結果、年明けから実施しているFD (Foundation Design)*の影響もあり、慈愛という言葉に対する感覚や、ライフミッションに対しての感覚が変わっているのですが、それはまた別のブログにて共有させてください。

*FD(Foundation Design)とは?
幼少期の体験や、環境から自分のらしさを探求しなりたい姿に向けての学習様式を紡ぎだすプログラム

前回までのブログで、「慈愛に満ちた関係」について、ライフミッションの観点からお伝えをしてきました。その中で、なぜ「慈愛」という言葉を使っているの?、という質問を何人かの方にもらったので、今日はこの言葉を選んだ理由について書いていきたいと思います。

まず結論、と書いて結論からお伝えしたかったのですが、難しかったので思考プロセスに沿ってお伝えします。

どんな人にとっても、深く安心できる関係を他者と構築することは、一朝一夕でできることではなく、お互いに継続したコミットが必要であると考えています。

それは、すべての瞬間が楽しく幸せなものではなく、瞬間瞬間での対立を共に乗り越えることや、相手へのネガティブ感情を超えて相手と向き合い続けることを求めるものだと捉えているからです。そんな風に他者と向き合い続けることは、とてもエネルギーが必要なことだし、ときには時間をかけて自分も他者も変容する必要があるかもしれません。

それに、人や自分との向き合い方って、誰にも教わらなくてやり方がわからないし、相手によって関係構築の仕方が異なるので、簡単に横展開できるわけではないなと感じます。

こうして聞くと、なんでそんな大変なことをするんだ、と感じる人もいると思います。

確かに、「対立」や「人との向き合い」と聞くと大変そうに聞こえます。でも、2割くらいの大変なことに向き合い続けると8割くらいの幸せな時間がさらに幸せになっていくのではないかと思っているのです。

そう考えた時に、この向き合い続けるというエネルギーを長期持続的に生み出すものはなんだろう?と考えました。

他者との関係構築を、自分にとってメリットがあるのかという観点のみで見ていると、どうしても今の自分が見えている範囲内での評価になってしまい、何かネガティブなポイントがあると動機が下がるので、継続的に向き合うというエネルギーを生み出すのは難しそうです。

では、友人だと思う人であれば、向き合い続けられるのかというと、それよりも強くて深いエネルギーが必要な感覚がありました。もしかしたら「友人」の定義やこれまでの経験によるかもしれないですが、長期持続的な関係構築において、私にとっては「友人」よりも強いエネルギーが必要だと感じました。

そう考えた時に、私が過去から現在に至るまでの経験のなかで、一番向き合えた人がパートナーだったんです。それは、この人と長く一緒にいたい、良い関係を構築し続けたいという願いが根底にあり、それに沿った意思決定があったから向き合えているように感じました。(もちろん、これはあくまでも私の経験によるものではあるので、人によってはそれが友人であったり、家族であったりするのかなと思います。)

これってなんなんだろう??と探っていった先に見つけたのが「愛」という言葉でした。私自身が、愛を自分の中に感じるとき、お腹の底あたりがあたたかくなり、不思議なエネルギーが湧いてくる感覚があるのです。この愛から生まれるエネルギーがあるから、向き合い続けようと思えるのでは?と思いました。(愛、って書くことに気恥ずかしさがありますが)

こうして行き着いた「愛」という言葉ですが、この言葉を聞いてみなさん何を思い浮かべるでしょうか?

恋愛、親愛、友愛、愛憎、敬愛、偏愛、、、、

ぱっと思いつくだけでも、多くの言葉がありそれぞれ意味が微妙に異なります。また、「愛」にまつわる経験も人によって大きく異なるのではと思います。なので、簡単に活用するには躊躇する言葉でした。

それでも、「愛」がとてつもないエネルギーの源になるのは確かだと感じていました。そのため、もう少し、イメージが多様ではなくて、柔らかくて、多くのものを受容するようなイメージを持つ言葉はなんだろう?と考えて行き着いたのが「慈愛」だったんです。

慈愛
親がわが子をいつくしむような、深い愛。

上記が慈愛という言葉の広辞苑での定義です。ただ、これも私が表現したい「愛」とは微妙に異なる気がしています。なぜなら、親がどう愛情を示すか、子であった自分が親の愛をどう受け取るかは、人によって大きく経験が異なるからです。ただ、そうすると既存の言葉で「愛」を表現できないので、自分が表現したいものに一番近い言葉として「慈愛」を選んでいます。敢えて定義し直すのであれば、慈愛 = 無条件に受容する愛 だと考えています。

この愛が一方通行ではなく、双方向で溢れている状態を「慈愛に満ちた」と表現しています。

次回は、冒頭で共有したFDによってライフミッションの感じ方がどう変わったのか、をお伝えしたいと思います!

ここに記載している多くのことが、探索中であり、仮説を作りつつ壊しながら進んでいるところです。こういう観点も取り込めるのではないか、ここは詳しくどういうことなのか、前提に取り込んでいる仮説が違うのではないか、などどんな批判・共感・叱咤激励も受け付けております!FacebookTwitter、noteのコメントなどからご連絡もらえると嬉しいです。

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