春田の愛のカタチ、牧の愛のカタチ

 劇場版おっさんずラブ、劇場版おっさんずラブのパンフレット、シナリオ本のネタバレを含みます。ご注意下さい。

 春田が夏祭りで牧に「別れようぜ」と言ったのは、牧の愛の重さを量ろうとしたのではなく、ただ単に自分の感情に突き動かされただけだと思います。感情がストレートな春田は直感で動くタイプで、良くも悪くも嘘がない。だから何の疑問も抱かず道端に転がっている人を自分の部屋に招いたりするんですよね。

 一方の牧は(林さんがパンフレットで触れていましたが)素直じゃないけれど可愛気のある所があります。ハードなスケジュールを無理してでもこなして、春田と行ける花火大会をとても楽しみにしていたと思います。きんぴらごぼうのシーンの牧は零れる嬉しさを噛みしめるのに必死な表情を浮かべています。春田にもらった浴衣を着て、愛する人を待っている姿は一途で健気で本当に愛らしいです。

 それが寝耳に水な別れの言葉を聞いてどれほど傷ついたかわかりません。でも彼は好きな人がそう言うのならとそう思ってしまうタイプの人でした。決して春田のことが嫌いになったとか、売り言葉に買い言葉だとか、別れてもしょうがないと思っているわけではなく、好きだからこそ受け入れてしまう。そこで嫌だと言えないのは彼なりのプライド。これもひとつの愛のカタチなんです。

 実際、牧タイプのような男性は多いと思います。自分は春田タイプなので彼にいつも不満を抱いていました。あまりにもわかり過ぎて春田の視点を通して牧の傷みに触れいつも泣いてしまいます。

 しかも春田と牧は遠恋でお互いに忙しく、なかなか話す機会もなかったのだろうと思います。もちろん香港へ出向いたのも、春田の家で食事を作って待っていたのも、大好きな春田と話がしたかったに他なりません。でも神様のイタズラとお互いのタイミングが合わず、そうこうしているうちに春田への不満も募り、牧も意地になっていた所はあると思います。

 でも、その不満を言葉にしてくれないと分からないし、何も伝わらないのです。何も言わなくても分かってくれるというのは幻想ですね。だから春田が怒るのも当然です。勝手に決めんなっと何度も言われているのに、牧の性格ではなかなか素直に甘えられないのだと思います。

 一方で春田も牧が我慢している、無理をしている、自分が思うよりずっと疲れている、気持ちに全く余裕がない、本当は甘えん坊?ということが言葉を介して読み取れないので、渦中にあると疑心暗鬼になり、ああなってしまったのだと思います。 

 自分は春田が牧の愛を試したとは思わなかったのですが、自暴自棄になっているのは感じました。春田タイプは怒りを感じると冷静さに欠けますが、牧タイプは怒りを感じると逆に冷静になるようです。なのでどんどん二人の心の距離は広がります。

 もちろん傷ついているのは春田だけではなく牧もそうなんですが、それもまたなかなか読み取れないんですよね。意固地になるとどんどん本音を言わなくなって行くので。春田はまた、それが悲しいんですよ。愛ですね。牧は牧で春田に甘えていたんだと思います。8歳歳上で包容力のある彼に。ただ、牧の甘え方は分かりにくい甘え方です。そこが若さであり可愛いところでもあります。

 自分は春田の立場も牧の気持ちも痛いほど良くわかりました。この場面でイラッとするという方を見かけましたが、その気持ちもわかります。色んな立場の人が居て、色んな感じ方をする。それでいいと思います。

 お互いの鬱積や疑心暗鬼が爆発して、相手を責め立てたり、勝手に自己完結してしまうことはままあります。特に春田のような直感で生きているタイプは、キチンとしたカタチ(言葉なり態度なり)を求めてしまいがち。とかく恋愛というのは理性のタガが外れて起きる、一種の暗示とか錯覚とか陶酔のようなものなので、在りもしない亡霊に怯えて、実は自分の亡霊に牙を剥いていたということも良くあります。そういう面でリアルさを感じると苦さしか映らないのだと思います。

 自分には二人のそれぞれの愛のカタチに愛おしさを感じて、いつも慈愛の涙で観てるんですが、これは誰にでもある恋の一風景。渦中の人にも追憶の中にある人にも、必ず響くものがあると思います。このノイズ感こそ、田中さん、林さんお二人が役を生きているということなんだと思います。

 時間の経緯を描くことに重みがあると思います。それを細やかな演技と深い洞察をもって、自然に見せてくれたお二人に改めて感謝。だからどんなに奇想天外でありえない設定でも、そんな些細なことはどうでもいいと思わせてしまうのです。

 春田と牧、田中さんと林さん、二人のラブがとまらない