劇場版に見る、息子と父親の関係

 牧の心の闇を読み解くを併せて読んで頂きたいのですが、牧パパが倒れた息子にまだ仕事に打ち込ませようしたことが揶揄されていることに自分は悲しさを覚えました。軽い冗談なのかもしれませんが、牧パパに対して誤解を招く恐れもあるため、自分にはそれが理解出来ませんでした。

 重ねて誤解のないように言いますが、理解が出来ないというのは、否定と同義語ではありません。理解が出来ないということは、どこまでも平行線であるという意味です。肯定も否定もしない。ただ、フラットにその気持ちや立場がわからない、というだけです。

 時折、無理解=否定と捉えられる方が居ますが、そうではありません。否定は相手のテリトリーに踏み込んで攻撃、あるいは押さえつけのニュアンスがあります。無理解は自分の中だけで完結し、どこまでも交わることのない感情を意味しています。

 牧パパが春田に「仕事に打ち込ませてやって欲しい」と言ったのは、身体を壊して倒れてもなお、馬車馬のように働けという意味ではもちろんありません。やっと息子が自分のやりたいことや自分の夢を持ち、それに向かって邁進している姿を見て、親として純粋に応援したかったのだと思います。自分にはあのシーンから息子に対する溢れんばかりの父親の愛しか感じませんでした。

 大事な息子だからこそ、仕事と春田との生活の両立ではなく、彼の負担を減らしてやりたいという一心で言ったのだと思います。子を思わない親は居ないと思います。時には春田を憎く思うこともあるかと思います。それだけ大事なひとり息子なのですから。その真っ直ぐな気性を誰よりも理解している牧ママが、春田に対してフォローをしたのも痛いほど分かりました。

 春田もまた、その両親の真っ直ぐな愛を大きな愛で受け止めました。そこが実に彼らしいなと思います。牧はそのことを知りません。牧は牧なりに苦しんだと思います。でも、春田は春田なりに苦しんでいたのです。

 劇場版の大きなテーマ〝家族〟。

 劇場版ではいくつかの家族のカタチが見られます。春田と春田ママ、牧の両親、ジャスティスの家族、狸穴さんと五郎さん。

 自分は男性の立場や心理は分かりません。ですから実感としては書けませんが、狸穴さんが父親に対してコンプレックスを感じていたことは分かります。彼にとって五郎さんは超えられない大きな存在だったのだと思います。

 小さい頃から職人としての父の背中を見て育ち、尊敬と憧憬、畏怖と憎悪が入り混じった複雑な感情を抱いて育ったのだと思います。いつか父のように在りたい、父を超えたい、でも、父のようにはなりたくない。そう相反する気持ちがエリート狸穴を作り上げた。彼は彼なりに部下を愛し、家族を愛し、仕事を愛していたと思います。

 でも、そこに黒澤部長のような、その向こう側に透けて見える、欲して止まなかった父親のような大きな愛が足りなかったのだと自覚するのです。その置いてきぼりにされそうな狸穴を救ったのはやはり春田でした。彼もまた、父親に対する憧憬の念が強いからだと思います。彼と共鳴するものがあったのだと思います。

 狸穴さんが五郎さんと和解するシーンが自分は大好きです。あの柔和な表情に、長年頑なに鎖ざして来た狸穴さんの心が、雪解けのようにほどけたのを感じました。

 彼は一生、父親の壁は超えられないと悟ったのだと思います。実は父親は自分の生き方や自分の夢を応援してくれていて、彼自身の夢は息子のために諦めてくれた。その大きな愛に触れて、どれだけ自分が父親に愛されて来たのか悟ったのです。

 それでも、うどんではなくたぬき蕎麦を注文する所に、狸穴さんの小さな矜恃を感じます。それは父親に対するささやかな抵抗なのだと思います。五郎さんもそれを咎めることなく、やさしく受け入れています。慈愛に満ちた素晴らしいシーンだと思いました。

 息子と父親の関係性は複雑で、自分が全てを読み解くことは出来ません。ですが、牧パパも五郎さんも息子を大事に想っていることは痛いほど伝わります。それを細やかな表情と仕草だけで伝える演者の方の力量と確かな技術には感服しました。

 ジャスもまた、家族の死をもってその重みを知ります。伝えなければならなかったこと、彼らの存在と愛の大きさ。まさに今、牧と〝家族〟になろうとしている春田に、全身全霊でそれを伝えたかったのだと思います。

 ラブとは愛です。ラブは恋情ばかりではありません。敬愛、親愛、慈愛、情愛、友愛、相手をかけがえのないものと認め、想い、愛しむことです。副題のラブがとまらないという言葉には、家族の愛、上司の愛、夫婦の愛、友の愛、仲間の愛も含まれます。ですから劇場版はたくさんの愛で溢れているのです。