春田の心の闇と、ほのかな光

 時に、春田のバックボーンについて考えを巡らせる。彼はいつ頃父親と別れているのだろうか。それによって見解が変わって来る。

 人のアイデンディティというものは父親へ帰属するものなので、春田が根なし状態なのは父親が不在なことに関係しているのは確かだ。部長に抱くのはやはり父親への憧れ。部長もまた、春田に抱くのは父性のように思う。

 母親が精神的に自立している場合、その母親との関係を深く揺るぎないものにしたくて、子どもはさらに子どもでいようとする。未熟でひとりでは何もできない自分でいようとする。未熟な自分はひとりでは何もできないから、そうすることでより母親に愛してもらおうとするのだ。

 両親から溢れんばかりの愛情と、地続きである母親からの理解を得られている牧よりも、春田の心の闇は深いのかもしれない。

 部長と同棲している時も、プロポーズを受けた時も、不自然なほど笑顔を浮かべていた。牧に別れを告げられた時には「これからは家事も手伝うからー!」と、まるで母親に見捨てられる子どものように痛々しかった。

 母親が出て行ったあとに牧が来て、牧が出て行ったあとに部長が来て、部長が出て行ったあとには牧が帰って来た。図らずも人としての成りを保つことが出来たのは、母親の不在を埋めてくれる存在があったからだ。

 徳尾さんは男性の目線で描かれているためここからは想像でしかないが、大なり小なり男性はマザコンな面がありパートナーに母性を求めるものなんだろう。

 春田はそれをより顕著に描くことで、誰もが心の奥底に抱えている人の弱さや甘え、脆さといったものに共鳴するよう描かれていたように思う。他者がそれを赦し受け入れることは容易いことではない。だからみな他の何かに救いを求めて生きている。

 それでも普通は血縁状態にある家族と性的な関係にはならない。だから牧と深い関係になるであろうラストの場面では、春田の成長が見て取れる。自己を確立したひとりの男として牧と向き合っているように見えた。映画ではさらにそれを踏み込んで描くと言う。

 春田が欲して止まなかったであろう〝家族〟というもの。そこに牧という永遠の伴侶を迎え、春田に欠けているものを牧が補い、牧に欠けているものを春田が補い、共に歩んで行く道を選ぶのだとしたら、うずくまって泣いていた小さな春田はもう道に迷うことはない。

 誰もが自分の心の深淵に小さな自分が居て、ほのかな光を求めて生きている。『おっさんずラブ』はそのほのかな光のような作品なのだ。