【シャニマス】『はこぶものたち』感想
「人のために」というありふれた説教に集う懐疑・嫌悪へ向けて。
◯はじめに
イルミネーションスターズはそこはかとなく実在性には少し欠けるユニットに思える───と、どこかで感じている人がいるかもしれない。なんというか、どこまでも偶像なのである、と。
そもそも、散々シャニマスの魅力として、時に揶揄的に話題に挙がる「実在性」とやらはなにか、の話を少し触れておく。例えば、美しい空の表現(文字表現でなくてもよい、絵やアニメーションなんかが実感しやすいだろうか)を見てから実際の空を見上げてみると、普段当たり前に見ていたはずのものなのに美しいと感じる、なんてことがある。鮮烈なインパクトをキッカケに価値観・概念がインストールされ、転倒が起こるのだ。意識していなかった「存在」が浮かび上がってくる。そういった"転倒"がフィクションのいう「実在性」の大枠の概形である、と自分は考えている。
勝手に「どこか実在性に欠けると思う人もいるだろう」と述べておきながらそれ自体には異論があるのだが、ただ、根幹のキャラクター造形が、センターユニットらしい、2次元アイドル像のアーキタイプをある程度象った、少しばかりファンタジックなものであるというのは確かだろう。しかし、イルミネのコミュでは、そういったファンタジーの中に、行間の機微をさらうと、十二分に「実在性」を感じることができる表現がなされている。その偶像性に対する文脈もある。というか、そもそもそのファンタジーな眩しさが良いのだ───というわけではあるが、『はこぶものたち』はそういった部分にあまりに直接的に言及するかなり踏み込んだコミュになっている。
ともかく話を戻すと、イルミネに強く感じる、言うなれば「偶像性」の正体は、「利他的である」ところが大きいように感じる。
ところで、"Messiah Complex"(=the savior complex)なるものがある。救世主コンプレックス、という名前の通り、自分は当然誰かの救いになれる存在───救世主のような存在だと信じる、そういった姿勢・心情を表す言葉だ。なにがコンプレックス(=心理的要素の複雑)なのか、というところを簡潔に言い表すなら、「自分のため」と「他人のため」あるいはそれに付随する意志が絡まったものであり、これによる不利益を指すことが多い。
これは、諸意志から方向づけられた自身の視座からの眺望を固定化し強固な実体と認識する、人間の傾向故と言えるだろう。同一性の絶対化を前提に差異を決定している認識ゆえに、コンプレックス=複雑に無自覚である。
イベントコミュ『はこぶものたち』は、倣っていうならば「はこぶものたちコンプレックス』がテーマであり、本コミュでは、複雑さに無自覚な我々が生み出す現代社会の諸問題と苦悩にまで及ぶ。
◯『はこぶものたち』とは
本イベコミュのタイトルにもなっている『はこぶものたち』。読み進めると、これが様々な人を指していることがわかる。
フーデリの配達員。サッカーチーム。そして、イルミネーションスターズ。
ここまで挙げた人たちの言葉からは「届ける」というワードが共通してコミュの中で登場する。『はこぶものたち』は「届ける」役割を担っていて、例えば、めぐるがオーダメイドのエシカルファッションブランドを発信するというのもこれに当たるといえる。
また、一見対になって「それを応援するものたち」も描かれている。
兄やんを応援する灯織やフォロワー。フーデリ企業。サッカーチームのサポーター。イルミネのファン。お互いを応援するイルミネ。プロデューサー。
誰かのために応援を届けるという意味で、この集合もまた、ある種の『はこぶものたち』と言えるだろう。
「届ける」「応援する」という言葉は今回のコミュで何度も繰り返し使われており、強調されている部分である。
ここまで挙げた『はこぶものたち』で登場するこの2集合や『作るひと』(エシカルファッションブランド)は全員、立ち位置こそ違えど、「"他人のために"何かを届ける人たち」≒「はこぶものたち」なのだ。
言うなれば我々の多くがなんらかの形で「はこぶものたち」なのだというわけである。
それらが繋げ重ね合うように話が進行していく。
◯はこぶものたちコンプレックス
しかし、影が徐々に落とされ始める。
『オフサイド』でも演出された灯織の焦り。エシカルファッションに対する「欺瞞」という声。フーデリへの悪評。不注意故の転倒事故。サッカーチームのサポーターとイルミネファンの衝突。イルミネ3人の優しさの空回り。
仕方がない問題と言ってしまえばそれまでだが、これは「人のために」における危うさ───「はこぶものたちコンプレックス」を示すためのものだろう。
自分の在り方を他人に依存してしまう危うさ。
理想に付随する不都合。
「誰かのため」の狭さや曖昧さが招く衝突。
灯織とも絡めて描写された『オフサイド』なんかは、かなり「はこぶものたちコンプレックス」の典型例のメタファーといえる。
一点ビハインドでのオフサイド。灯織が少し劣等感を感じている中での焦りと重ねたものだろう。
もう少し言うなれば、広義での「自分が救われたい」「他人を救いたい」という気持ちの混合───「はこぶものたちコンプレックス」の典型の隠喩表現といっていい。
イルミネを絡めて提起された「はこぶものたちコンプレックス」の影である。
一見散らばっているように見える問題のどれも独立しているわけではなくて、コミュ内で『はこぶものたち』を繋げ重ねた演出をしてきた故に、「他人のために──」に重なるところであり、イルミネにとっても重なる部分になっている。
◯『君と、君の無数の隣人のために』───"隣り合う"君と自己と未来
彼女たちは優しいから他人のせいにしたくない。だから、他人のせいにしてしまえた重さを感じてしまう。自分のせいというにはあまりに、『みんな』に在り方を委ねてしまっていたから。
「誰かのために」というのは───自分にとってそれが救われる形だから───簡単に言ってしまえて、でもそれが上手くいかなかった時に、誰かが傷ついてしまった時に、その責任がその人たちに向いてしまう重みがある、「はこぶものたちコンプレックス」の影を痛感する。
そして、「不透明だった誰か」の不利益に対しても悩むことになる。
今回に関しては、3人とも優しすぎるくらいで、誰も悪くなかった、どうしようもなかったといっていいだろう。
けれど、彼女たちが凄かったのは、どうしようもなかったで済まさず、そのままの在り方ではいけないと思い、悩んで彼女なりの答えを出したことだろう。
イルミネ3人は話し合い、サッカースタジアムにもう一度向かう。
そこで、観客席の、あの時座っていた人たちと、これから座る人たちに想いを馳せる。
───物事は複雑で、それでいて繋がり重なり合い、無数の人で構成されている。人の感情も同じで、様々な心理的要素が絡まっている。
思えば、このイベントコミュ全体でも、ひとりひとりが別の人で、立場もやることも違って、でも、それでいて"隣り合っている"、という演出がなされていた。それは物理空間的にだけでなく、精神空間的、時間的にも。
そして、だからこそ、『君と君の無数の隣人のために』に続く、灯織たちが辿り着いた考え。
この灯織のフレーズは、冒頭から何度か出てくる灯織が兄やん───『はこぶもの』を表現するフレーズに、『自分のために』を加えたものになっている。
『誰かのため───』における「自我」の開示、すなわち、パースペクティヴの認識と、そして、「誰か」───「君と君の無数の隣人」と"隣り合う"、その関係こそが「自己」であるという認識。
そして、意思(差異)の拮抗を見据え、複雑さを知った上で、信じ抜いてみせる『誰かのためになる』は、欺瞞なんかじゃない、いや、欺瞞だとしても────
そうなるって信じて欲しい、と、イベントコミュ『はこぶものたち』の最後は、それを踏まえた『はこぶものたち』への応援で締めくくられる。
凄く大きな話をしていながら、それでいて『はこぶものたち』の凄く小さな話をしていて。
それが『君と君の無数の隣人のために』と「自分のため」の話でもあり、
『みんな』の話でもある。
また、灯織がこんなことをいうシーンがあるのだが、
それは、良くも悪くもきっとそうだ。気楽とも残酷とも言える。この『はこぶものたち』には、全てが解決するようなオチはない≒物語性が乏しいことも特徴だろう。物語性は魅力的な一方で、瞬間的な都合の良い価値観を絶対化するような暴力的な側面もある。このコミュではそういった暴力性を避け、「無数の隣人」を取り巻く諸問題に対する行動としての正解は描いていない。むしろ、その正しさなどという絶対的な価値の存在を否定しているとすら言える。
それでも、『はこぶものたち』は誰かのために漕ぎ続けるのだ。ならば、その変わらない世界で見た、無数とも言える差異の流動を見据えて、
……後日談にあたる、イベントs-SSR【W to W】(『はこぶものたち』の内容的にこの題はいわゆる「油井から車輪まで」のことだろう。車輪はタイトルロゴや3話タイトルにも使われている。)ではこんなシーンがある。
◯おわりに
このコミュが告知された公式生放送で、シャニマス制作プロデューサーの高山氏はこれを「難しい話」と形容した。読んだ今、なるほど確かに、と感じる。若干センシティブな話題を含んでいるのもあるだろうが、それ以上に、下手に要約されてしまいかねないというところがある。
それにこれは、イルミネの偶像性に、あまりに現実的な言及がなされたコミュである。もちろん、この話はイルミネだからこそ意味を持たせられた部分は大きいが、だからこそ面食らうコミュではあった。
少しだけ話は変わるが、「己を愛するは善からぬことの第一也。(中略)決して己を愛せぬもの也。」なんて言葉がある。これは西郷隆盛の遺訓であるが、彼は自己愛を否定し、私利私欲に走るのを厭う人であったらしい。彼は近代の功利主義に反発し、日本の伝統的な共同体的感性・範型に従って生きた。
現代の自分達から見ればそれは、さぞ美しく感じるだろう。
ただし、彼のいう自己愛の否定は、わかりやすい一方で、ある意味で完全ではない。恐らく、少なくとも彼はこの規律に従う自分に対して言うなれば自我愛が多分にあったはずである。それは自己愛に他ならないのではないだろうか。
本コミュは、「他人のため」=「自己愛を否定」という範型とそれに対する現代感覚での懐疑に対する主張だったように感じる。
何はともあれ、「自分のために」「他人のために」のどちらかが表面化しやすい行動については、その2つが同時に存在すると、なぜか不健全に感じる(あるいは認められない)傾向にあるように思う。端的に言うなれば、これに限らず多くの場合で、意志を純粋な単一なものとして捉えようとするものなのだろう。それ自体が完全に悪いわけではなく、むしろ部分的に正しく、自分の中の範型に従うには適しているようにもみえる。おそらくは自分を守るための正常な機能とすらいえる。
だからこそ「はこぶものたちコンプレックス」は問題になる。そういった健全性を突き詰めたつもりの心理的要素の複合体の表面に浮き出るものだけを認めた無自覚な行動によって、不利益が生じるなんて残酷な話である。
であれば「人のために」において西郷のごとくあるべきか、はたまた「人のために」など欺瞞であるか、という話に対してのイルミネの解答が、この『はこぶものたち』で描かれたものの一つである。
空間的・精神的・時間軸的に人と"隣り合う"、関係としての自己とパースペクティヴィズムの認識。
その上で到った「人のために」ならば信じて欲しい、と。イルミネーションスターズを主体として描いてきたからこその力強いメッセージを感じるコミュである。
……視点を広く持ち、誰かのために、未来のために行動をすることがどこに行っても訴えられる時代になってきている。
しかし、その利他的な考えというのは、多くは、嫌悪を買うか、口だけの同意で終わってしまうものだろう。
イベントコミュ『はこぶものたち』で描かれたメッセージは、誰かのために頑張る人へのエールでもある。
危うさも、そこに吹く強い風もあって。それをイルミネと見つめ直す───そんな、「輝きをみんなに届ける」イルミネーションスターズらしいコミュだったと思う。
これからのイルミネーションスターズは、彼女たちが見たものをどんなふうに届けてくれるのだろうか。
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