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しんたろーたりー氏が語っていた、善悪ではなくて好き嫌いで生きていくということ。


voicyのパーソナリティでおなじみの「しんたろーたりー」さんのツイキャスを聴いた。

その中で興味深い話があった。

単刀直入に言えば「もっと好き嫌いをベースに生きたほうがいいんじゃない?」ということ。

それはなぜかということも含めて、自分風に語りたいと思う。

◆叩き合いで生きる「善悪」の世界

今も昔もツイッターでは争いが起きている。

特に最近はコロナウイルスがらみの「自粛派」vs「自粛反対派」による争いが起きている。実際でもパチンコ店での言い合いなどに発展している。

オレ(の立場)が正しい、という主張でお互いが争っている。不毛にしか思えないが。

いきなりアフリカの話に飛ぶが、どこにも行けないGWに、2013年ごろの中央アフリカの内乱についてのVICE(ニュースメディア)による映像を見たが、イスラム勢力とキリスト勢力の血で血を争う内乱と、それに巻き込まれる市民を描いていた。

すごくグロいので皆にはお勧めしないが興味があれば見てください。

https://www.youtube.com/watch?v=VoQAxQgevEA

イスラム勢力(セレカ)は「俺たちは略奪してない、地元のギャングの自作自演だ、悪いのはキリストだ」と正当性を主張すればキリスト側(アンチバラカ)は「セレカが虐殺略奪を繰り返しているので、俺たちはそれに反逆するべく略奪をし返している。ただの無秩序な略奪とは違う」と犯罪行為すら正しいと主張しているのだ。

これも、そこにあるのは「善悪」だ。自分たちは正しい、だから悪を行うことなどありえない。

先述の中央アフリカのキリスト勢力は犯罪行為ですらイスラム側のそれとは違い、正しいものと主張するのである。「正しさ」の暴走はそこにある。

「正しい」というものは、その行為を自分だけの範疇ではなく、その後ろを支える大きな存在を感じさせるものではないか。それゆえに一度「正しい」と感じてしまうと、無意識にその方向に行きがちになるのではないか。一方で「正しくない」行為をする人が許せなくなる傾向もある。自分が依っているものを支持しないのが心地悪いのかもしれない。

◆「好き嫌い」の生き方はあくまで自分ベースの基準である

一方、好き嫌いはどうか。

自分は〇〇が好き、〇〇が嫌い、というのは自分ベースであるような気がする。

例えばAさんがBさんを嫌いだとする。

①Aさん「Bさん苦手なんだよね」

②Aさん「Bゆるせねーよ、制裁加えないといけない」

①は好き嫌いの範疇だけど、②はさっきの「正義(善悪)」の話になってたりしないだろうか。

①に対して「苦手なんてありうるか、好きになれ。Bは好きになる要素あるだろ」と善悪の見地からそこまで言えるかは微妙だし、でも②だったら「いや制裁はまずいやろ」っていうのは自然な気もするわけで。

さっきの善悪では「大きな概念」みたいなものがついてまわるけど、好き嫌いはあくまで「自分がどうか」であるから、そっちのほうが柔軟に動けるし、嫌いなのが好きになったときに「でも正義の見地からどうなんだろう」みたいなことを考えずに済むわけよね。

◆雑なまとめ

なんだろうな、結局正義や善悪みたいな超人的な概念を自分の考えと結びつけて暴走するより、好き嫌いベースで気楽に生きたほうが柔軟な気がします。

好き嫌いって結局正しいかどうかを考えなくていい(自分はこう思うんだからこうなんだよって話だし)し、疲れない生き方な気がするんだ。なのでこっちのほうがお勧めなんじゃないかと。自分がやってることが正しいのかどうかって思うことも疲れるし。

もっと気楽に好き嫌いベースで生きていくのもいいと思うよ。そんな感じ。

◆余談・しんたろーたりーさんキャスまとめ

彼はるろうに剣心の志々雄戦を題材にした。


(以下るろ剣ネタバレ注意)





志々雄は戦い続けると発火する特異体質になっているため長時間戦えない。

剣心との闘いが長引き身に危険が迫る中で、恋人・由美が体を張って止めようとしたところを刀で貫き、そのまま剣心を刺そうとする。

その卑劣に見える行為に剣心は「命を懸けた由美殿になんてことを」と怒り志々雄を諭すが、志々雄は

「お前の物差しで測るんじゃない」とくぎを刺し、そして由美も

「戦場では武が無くて役に立たない私も命を懸けて、最大の闘いに臨む志々雄様の役に立てた・・・光栄・・・。

私は地獄で待ってます」と言い残し喜びの中で絶命するのだ。

剣心はたしかに世間の声、つまり善悪論による諭しを行ったが、好き嫌いの世界、言ってしまえば志々雄ルールの中で生きる志々雄と由美には届かない。

命を懸けて止めても止めた相手から刺されるーーーツイッターで延々と愚痴りそうな展開でも由美は満足して逝った。

現代の一般的な善悪論では測れないものが人間味があっていい、としんたろー氏。

戦国時代は人殺しも「善」だっただろうし、善悪は時代によって変わるし、それほど普遍的なものでもなければ不要な争いを産む考えだ。なら好き嫌いで生きてもっと他人の好き嫌いにも寛容になったほうがいい。日本は少なくともそういう価値観の違いを受け入れる素地がない。

これがしんたろー氏が言いたかったことではないだろうか(間違いあったらごめん)

きょうはいじょ。






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