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実験音楽の行方その1 ジャンル性

実験音楽。
音楽にはジャンルといったものがあります。
と言うと
「ジャンルなんてクソ食らえ!」
てな感じの反発もあるかもしれません。
アーティストでジャンル嫌いな方は多く、
「自分達の曲を勝手に括らないで欲しい。」
といった発言は決まり文句と言ってもいいでしょう。
しかし、そういったアーティストの曲を聞いてみると、案外構成的で
「カッコつけてる割にジャンルの影響受けてるジャーン。」
と私みたいに捻くれすぎて渦巻きウインナーみたいになってる人は思うかもしれません。

時は遡ること13世紀、イギリスの哲学者ロジャー・ベーコンは「実験は理論を与え、理論は新しい帰結に導くもっとも重要な手段である」と説きました。
体系化された理論は構成として外枠を作り、これが音楽ではジャンルという見方ができるかと思います。
そして、その理論、そこから派生するジャンルを作るのが実験ということ、つまり実験音楽は、ジャンル製造機と言っても良いかもしれません。
そんな中、私的に実験音楽には二つの見方ができると思ってて、一つは、ジャンルの上での実験。もう一つは、もっと抽象的な段階、即ち音と音楽の外側になられる実験。
前者は、プログレッシブロック、ポストロックのようなジャンル的枠組みを前提とし、その中でジャンルの幅を広げる実験。
後者は、「音楽とは?」という視点でジャンルに繋がる構成から一歩引き、あれこれ新しいものを探求する実験。
本稿では後者に注目したいと思います。

最近、実験音楽なるものを聴いていると思うのですが、
「コレって、音楽で実験していると言うよりは、実験音楽というジャンルをやっているのでは。」
そう考えると、実験音楽はもはやジャンル製造機ではなく、体系の中に組み込まれた存在であるようにも感じます。
そこで今回は、実験音楽の過去と現在を覗き、その中でジャンルについて考えていきます。

ジョン・ケージと作品の外側

ご存知の方はいるかと思いますが、
「4分33秒」はジョン・ケージの作品であり、一切音が流れません。
この作品で多く語られるのは、沈黙や、会場内の偶然的な音響ですが、
あえて作品の枠という点に着目してみます。
そもそも作品というのは、表現したものを個別化する概念であり、その認識のために題名という何かしら命名された枠が提示されている。
そう考えてみると、「4分33秒」は実体的にみて、枠という最小限の前提が提示されているのみであり、作品の概念において極めて外側に面していることがわかると思います。

そうした従来の音楽様式の道から外れ、外側に行こうとする動きが実験音楽、また現代音楽だと考えられます。
所謂、外側との対話。(ちょっとカッコつけました)
しかし、そうした動きには、問題点がいくつかあり、一つは類似性による単純化。
例えば、誰かが「4時間33分」という曲を作ったとします。
単純に拘束時間が地獄という点以外に、前衛的立場で他者依存、思考の単純さが垣間見えてしまうと非常に薄っぺらい上にダサく感じてしまう。
深層を見ずに表面的な部分だけを真似する。
そう言った見え透いた傾向が活発化すると、実験音楽、現代音楽、に限らず、芸術は仰々しさだけが強調されてしまいます。

そして、もう一つの問題、それは
本当に意味がわからなくなってしまうこと。
マウリシオ・カーゲルの「フィナーレ」という作品では、
楽譜の中に「指揮者倒れる」という指示があります。

他にもティンパニに頭を突っ込む「ティンパニとオーケストラのための協奏曲」


この作品、シュールで面白いのはさておき意味不明ですよね。
こういったフィジカル性は音楽という枠で処理していいのか。
もはや外側との対話というより、外側への一方的な行進、外側へのマシンガントーク。
おそらく、ネオダダやフルクサスという芸術運動に起因しているため、これは意味のあるものとしてではなく、界隈に対しての衝動という面で見た方がいいかもしれません。
つまり、外側に進むほど、本来の構成要素(音楽だったら音)は重要視されず、他分野の要素が混じり、意味ではなく、衝動に重きが置かれるのだと思います。
そう言った意味で、実験音楽は本来の音楽に対しての実験という名目でジャンル性を維持するのは難しいのかもしれません。

派生ジャンルと現代の実験音楽

実験音楽、現代音楽から派生したジャンルとしてアンビエント、ミニマルミュージック、ノイズミュージックが挙げられるかと思います。
最近の実験音楽と括られたものを聞くと、勿論例外もありますが、大半はこの三つのジャンルと区別がつかないものが多いです。

そこで、bandcampというインディーズアーティストの作品を多く扱い、ダウンロード販売するサイトを覗き、experimental(実験音楽)の枠で実験音楽についての説明を見てみます。(関係ないですが、このサイトで購入履歴が次々と流れていく仕様が面白くて好きです。)

ここで紹介されているアーティストたちにとって、伝統や形式は蚊帳の外。斬新な音の組み合わせの avant-garde、機械音を轟かせる drone、ワイルドな即興にしても、自らをエクスペリメンタルと定義する彼らの興味の共通点はただ一つ。私たちが「音楽」と定義するルールを押し広げ、前代未聞の音の形を掘り起こすことです。
bandcamp.com

avant-gardeは前衛といった意味で、
droneは持続音という意味で、インドなどの民族音楽で多用されます。
そして面白いのは、このサイトではexperimentalという枠の中に、上の二つを含んだ、細かいジャンルが提示されていることです。
つまり、ここでは実験音楽がある程度体系化されたものとして扱われていることがわかります。
実験音楽は体系を生み出すことはあっても、それ自体の体系化とは対であるように感じますが、現状としてある程度派生されたものとしてジャンル的価値を築いていることがわかります。

先ほどのマウリシオ・カーゲルの作品のように外側を追求すると、パフォーマンス等の非音要素を含むものとなり、本来の音楽という意味合いからは外れていきます。
その点、このサイトもそうですが、デジタルであるということは、パフォーマンスのようなフィジカル性、カセットのような物質性を省くものとなり、あくまで”音楽”の範疇に価値が絞られます。
それが良いか悪いかわかりませんが、現在の実験音楽は、非音要素を含む外側への追及という点で形骸化しており、かつての実験音楽が生んだアンビエント、前衛系作品の体系を辿っているのだと推測できます。

まあ、先ほども書きましたが、衝動のようなものは、その時代だから注目を浴びる、いわば旬のものなので、維持して受け継がれていくものでもないでしょう。
そのため、ジョン・ケージから始まった実験音楽は体系化され、ジャンル製造機から名目上の実験音楽へ、悪く言えば形骸化したと言えるかもしれません。
まあ、そうならざるを得ない、という感じもしますが、かつての衝動はロック、ポップ、ヒップホップなど各々のジャンルに溶けていったのだと思います。

まとめ

「形骸化した」と書きましたが、実験音楽は大きなジャンルとなった、という見方もできると思います。要するに、アヴァンギャルド、ドローン、ノイズなど抽象的な要素を部品として使い、幅広い作品を作るための場所として提示されていること。

大分、ふわふわした結論になりましたが、おそらく政治や社会問題の話にはなってないので大目に見て頂けるとありがたいです。
その1では、ジャンルに着目し、定義的な意味合いで実験音楽に触れましたが、
その2では、「ある意味形骸化した実験音楽、その現状は如何に!」
的なテーマで、実態や面白そうな作品を取り上げていきたいと思います。




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