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Irish Setter < Japonais Setta

初めてパリの地に降り立ったのは、早いものでもうかれこれ30年以上も前のこと。

パリジャン気取りのボクはアニエスb.のボーダーTシャツに、UKリーバイスの513ホワイトをロールアップして、足元はLoakeのタッセルローファー。

すれ違うパリジャン、パリジェンヌ誰もがボクのことを「エトランジュ」などと思わないくらい自然で「街に溶け込む完璧なコーディネートだ」なんて、オペラ通りからサントノレ通りへ、リヴォリ通りからポンヌフを渡りシテ島を経由して、サンジェルマン・デプレ辺り、風を切って歩いてた。



当たり前だけど、今から30年以上も前はスマホはおろか、インターネットなどもなく、外国にしろ、日本国内にしろ、全ての情報は雑誌から得るしかない時代。しかも、愛読する雑誌の情報を全て鵜呑みにしていた若者。

当時の全ての若者がそうであったように、ボクもそこに書かれている情報は100%新鮮で、正しく、信頼できると思っていた。

「今、パリではチェック柄の上にチェック柄を重ねるのが一番オシャレ!」とあれば「そうなのか〜」と、押入れの中から出してきたタータンチェックのシャツを着て原宿CHICAGOに行き、同じようなタータンチェックのパンツを探して試着し「何だか、チンドン屋みたいだな」と思いながらも¥800で買ってみたり、「パリっ子はみんな『TATI』で買い物デートが定番!」なんてデカデカと見出しに書いてあれば「そうなのか〜」と、「じゃあ、ニッポンの『TATI』はイトーヨーカドーか?西友か?はたまた、ディスカウントショップ『モリ』か?」などと彼女と論争しながら、それでもとりあえず西友と『モリ』を巡って、可能な限り「パリ」を感じさせるモノを探して買ってみたり、、、50歳を過ぎた今、冷静に考えてみれば「んなこたぁない(©タモリ)」と笑っていいとも。

そんな20歳そこそこの田舎者が初めて訪れたパリの街の印象は、「オシャレな人が一人も居ないじゃないか!」

厳密にいうと「雑誌で見かけるような、ボクがオシャレだと思う人」が居ないのだった。

街を行き交う若者は、こぞってアメリカ産の安いスポーツウェアや名前も知らないようなブランド、親からのお下がりなのか、友達からもらったのか、決してヴィンテージではない、ただの古着ばかり。

これは衝撃だった、、、そして同時に不安にもなった。

かろうじて、アニエスb.の店員、ギャルソンやヨージのマヌカンのみが雑誌で見かけるような、全身隙のないオシャレさんだった。それを見て、ボクはとてもとても安心した。

そう。ボク自身も決して「オシャレ」なんかではなく、「オシャレしたいと思っているだけ」の田舎者だったのだ。雑誌で見たことのあるコーディネートだけが、雑誌でモデルが着ているブランドだけが、雑誌に掲載されているアイテムだけが「オシャレ」だと思っていた、ただの田舎者だった。

誰かが「いいよ」と言っているモノを手にする安心感。自分の好きな、憧れてる人が身に付けているモノを頭の天辺から爪先までコピーすることで、その人と同じに成れたと錯覚する満足感。



「オシャレ」の概念が自分の中で瓦解し、再構築されるきっかけになったのは間違いなく、この初めてのパリ訪問だったんじゃないかな。

その再構築というか、「自分のやり方で消化する」という思考のきっかけになった出来事があった。


ジュール通りにあったアニエスb.のギャラリーから、マレ地区のピカソ美術館へ歩いて向かう途中だったと記憶しているんだけども、裏通りに面したカフェの、歩道に置かれたテーブルセットでお茶をしていたカップルの足元が、二人して「Japonais」だった。

二人とも、かなり履き込んだであろうインディゴが薄くなったジーパンの裾をかなり捲り上げて、男性は鼻緒が黒の雪駄。女性は鼻緒が赤の草履。

これは衝撃だった、、、そして同時に何かが分かったような気がした。


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数年前から「いつかボクにくれ」と親父にねだっていた本錦ヘビの雪駄をついに手に入れた。30数年経って、ようやくあの時のパリジャンに負けない着こなしが出来る自信がついた。

雑誌では「80年代のアイリッシュセッターが今、再注目!」なんて見出しが出てたりするかもしれないが、ボクは「ジャポネーズセッタ」でキメるぜ。


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