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大神先輩の柴又は本当に独りよがりだったのか?

こんにちは。かっぱずしのひとです。DJMで楽しみにしてたコンビを2時まで待ってたら投稿されなかったという悲劇を経て半ばヤケクソになりこの文章を書いています。泣いちゃうぜ!さて、この文章を書くきっかけとなったのは言うまでもなく
https://note.mu/yamada_walk/n/nbeaf5c8509a8
こちらです。うーんぐうの音も出ない。
しかし、


本当にそうだろうか。確かに、音MAD界隈では後輩を昏睡させて強姦した悪魔や自転車を盗む小悪党、地球を破壊せんとするユニバース組など、倫理的に優れているとは言えない人物が人気を博してきました。

しかし、どうだろうか。

今でも多くのファンアートが描かれる野獣先輩は、強姦魔だから支持されたのでしょうか?

坂本くんは知名度こそあれど、彼の舞台の主役はいつだって2人の神谷奈緒であって、本人はただの汚れ役と言えませんか?

ユニバースで悪となったSEIKINが、原西が、いつまでもその悪事を続けられたでしょうか。

否。なんだかんだ言いつつ、音MADのファンは勧善懲悪を好んでいるのです。1つの動画としてもそうだし、シームレスに見た文化としても。
そんな中、音MADスターの座を駆け上がっている大神先輩。彼女の「柴又パーティよ!」の一言でコメントは一斉に湧きあがります。そんな彼女が、果たして悪としか言いようのない行為を、勧善懲悪を愛する音MADファンの前で行い、支持されるでしょうか。とてもそうは思えません。
柴又には、自分の欲求を満たすためだけの浅はかな行為以上の意味があるはずだ。大神先輩が無理やり柴又をしたことは、愚かかもしれないけれど、悪ではない。そう考えます。では、そんな柴又とは何なのか?考察していきましょう。


柴又の考察に最も重要なのは、「柴又パーティ」の存在です。もしも柴又がそういった下劣な行為ならば、あれはただの乱パです。最悪すぎる。この結論を回避しようとするならば、柴又と柴又パーティを全くの別物と捉えるか、柴又を2人以上でも倫理性を保ったまま行える物と捉えるべきです。
まずは前者について。この理論ならば、柴又パーティがどんなに汚れたものであったとしても、柴又自体の品位は保てます。しかし、大神先輩に柴又パーティと柴又を別段分けて使用している様子は見えません。柴又パーティを行うぞ、と宣言した後に柴又しているのですから。
とすれば、後者。柴又は2人でやるものとは決まっておらず、双方向のコミュニケーションならば人数の指定はない(ただし2人以上に限る)。こう考えるのが無難でしょう。

では、柴又をもう少し細かく見ていきましょう。まず、ほとんどの場合柴又に動きはありません。
初めに少しだけ助走をつけ、あとは直立不動で歌い切る。
なんというか、こう不合理的にも感じられますね。間奏パートでもう一回助走とか付けても良さそなのに。あと歌声を聴かせたいにしてもアレは近すぎでしょう。むしろ相手の言葉が聞こえにくい気すらします。

このあと、
「あれは詩を詠む遊戯だったのだ!
あそこまで近づくことで、相手に声を聞こえにくくし、詩を詠む時特有の恥じらいを軽減させていたのだ!
息継ぎをしないのは、少しでもズレて相手に自分の声が届くのを回避するため。
喘いでいるだけに聞こえるのは、部外者の我々に発言が分からないように加工をしてアップロードしているから。Glen氏が一度削除したのは、加工ミスがあったからと考えられます。
もちろん、ミスがあったからと言って、部外者である我々には発言の内容は検討もつきません。
しかし、同じ柴又詠み人ならば内容が把握できてしまうミスだったのでしょう。
現に、同じ柴又詠み人であるここすきbot氏に対し、彼の自売りMADを連発するなど、敵対心を露わにしています。更に、フォロー機能を使い、動向を監視する素振りも見せています。
その上で本編をもう一度見てみましょう。柴又しろ、と言ったのに柴又を行なっているのは言った張本人の大神先輩。
このまるで素っ頓狂な行為がこの理論で理解できます。どうしても、ハンダさんと詩を共有したい大神先輩。しかし、1人で言うのはどうにも恥ずかしい。ならば柴又の形をとって、2人いっしょにやろう。行き過ぎたハンダさんへの想いを胸に、「柴又するぞ、お前も詩を詠め」と強いる大神先輩。しかし、ハンダさんが詩なんて用意しているはずがありません。そこで、大神先輩は2人同時には詠まず、交代制で詠むことをていあ...てい...柴又って1人でも...出来たなそういや...ならこのこじつけ成り立たねーじゃん...と気づいたので終わります。ここまで読んでくれた人死ね〜!

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