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ハンマーが、ボコッとわたしを壊すとき。

行くぞー、とサッカーボールを蹴りあげてみたけれど、ふだんやらないものだからボールは思った方に飛んでくれなかった。わははと笑いながら、大きく後ろに逸れたボールを追いかける友達に、ごめん!と声をかけた。

実家に家族が集まり食事をした帰りの車中、なんとなくさみしい気持ちになってジョージ・ハリソンのオール・シングス・マスト・パスを聴く。国道沿いのチェーンの飲食店は前と違う店になっている。

ベランダから見える隣町の花火大会を眺めながら、スーパーで買ってきた焼き鳥や惣菜を威勢良く並べる。この感じ最高だね、と彼女が笑ってくれた。途中強い風が吹いて、食べかけの枝豆は散らばってしまった。

こうした日常の積み重ねが、自分をつくっている。改めて思い出すまで思い出にもカウントしていなかったような、小さなできごと。これが積み重なって自分の「型」になっていく。

でもあるとき型が壊される時がある。固いハンマーがふりおろされて、ボコッと型は壊れてしまう。それは、失恋や死別など、どうにもできない別れかもしれないし、「これを待っていたんだ!」と腹にぐっとくるような人や場所との出会いかもしれない。

とにかくハンマーだ。ハンマーはこっちの事情なんかしらない。腹が減ろうが、足がつろうが、猫が眠ろうが関係ない。ハンマーはハンマーだ。僕の型は跡形もなく壊されてしまう。

壊されたあとに、さあどうするか。そのままにしている訳にはいかなくて、壊れた型をなんとかつぎはぎして元に戻そうと思う。でもなんだかうまくいかないし、パーツの色が変わったり増えたりしていて、なおさら噛み合わない。

仕方ないから色々試してみると、ある日カチリとハマる瞬間がある。今までの型とは違う、新しい型になっている。その型が、いいか悪いかは分からない。とにかく、今までとは違うものだ。

「ほぼ日の塾」で体験したことを他の誰かに伝えることはとても難しい。同じカリキュラムで、同じトーンで受講するわけではないから個人差が大きくでるため「何をやるか」はうまく伝えられそうにない。具体的には、「塾生が3つの課題を提出するだけ」なのだけど、それでもそれを説明することは難しい。

でも、「どうやるか」は少し話せる。真剣にやろうとすればするほど、どんどん落ち込んで、焦って、少し報われて、でもやっぱり落ち込んで。やめたくない。ここで自分だけ降りたくない。悔しい。他の塾生の課題を見たくない。悔しい。悔しい。つらい。

僕にとってのほぼ日の塾は、まぎれもなくハンマーだった。ぼこぼこだった。終わったあとに、達成感よりも悔しさが残った。

この塾で、「ハンマーでボコっと」を体験しない人はきっといないと思う。ほぼ日の乗組員の真剣さに、課題の難しさに、自分の力量のなさに、他の塾生の作品に、時間の過ぎ去る早さに。すべてがハンマーになる。

もし、受けようかどうしようか迷っている人がいたら、僕は、応募してみたらどうかな、と伝えたい。きっとそれぞれの立場と場面で、受け取るものがたくさんあると思います。

ほぼ日の塾の第5期が始まります。11月12日が応募締め切り。https://www.1101.com/juku/index.html

#ほぼ日の塾とわたし


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