見出し画像

いきること、それは「いまを切る」こと。

【この記事は1分で読めます】

“平成最後の日”とかいう言葉を使っている人ほど、もっとセンチな気分になれることを“自分の足”で探したほうがいいと思う。

とか、言うわたしも平成最後の日は、初めて訪れた岐阜の加子母(かしも)という山間の集落で朝を迎えた。そして、平成最後の晩餐は、帰り際これまた初めて訪れた名古屋での味噌かつ定食であった。

岐阜では「もりのいえ」というところにお邪魔して、人生初のホームステイを体験させていただいた。築150年の古民家をリノベートした空間で、ご主人の話を聞き、奥様が作った美味しい手料理をいただき、そして子どもたちと肌で触れ合うことすべてが、わたしを“現状の外側”へと連れ出してくれた。

人は場を共有することで、他者を“立体的”に観ることが可能になる。けれども、場の共有と言っても職場とか学校で会うような人間同士のことではない。志を同じくする者同士が場を共有することで、初めて自分の中に眠っている可能性の存在に“確信”を持つことができるのである。

つまり、他者が背負ってきた人生を間近で観て聴いて、間接的に触れさせてもらう。そして、自分は他者が発する人生の「音」の響きをただひたすら体で感じ取る。そうすることによって、自分の中に眠っている不純なもの、澱み、つっかえているのが分かっているけど取り除けない何かがスーっと消えていくのだとわたしは思っている。

自分を“Rock it”できるヤツだけに幸福は訪れる

テレビや新聞、ネット上に広がる発信者の顔が見えない情報と無縁な生活を送れるようにならないかぎり、人は(特に日本人)“自分”に関心を向けることが難しいように思える。わたしの場合、新聞とテレビ断ちをするきっかけになったのは、重度の腰痛を患ったことである。

体とこころは密接につながっていて、こころのゆがみ(認知のゆがみ)を修正していくことで腰痛が瞬く間に消えていくという経験をしているのが大きいと思う。

人は誰でもこころのゆがみを抱えていて、そのゆがみは100%外部から得た情報(親の影響も含め)で作られている。学校のテストで95点と40点のどちらがいいのかと問われて95点と答えること自体、それは他者から埋め込まれた価値観によって形成されたゆがみとも言える。

自分に関心がなくても楽しけりゃいいじゃんって思う人だっているはず。けれども、ジジババになったとき、そういう考え方だと他者への依存度が限界を超えて、結局孤独な生活に耐えきれなくなってしまうとわたしは考える。孤独ほど体を蝕むものはなく、どんな劇薬も治療も効かないのだ。

これからは、自分の生き方を“culture”にできる人だけが、人生を心の底から楽しめるとわたしは確信している。カルチャーはもう、時代からは作られない。時代はいままで以上に臆病だし、必ず誰かの操作が入っている。

だからこそ、いまの自分を切って切って切りまくって、表現しようではないか。そのために、志を同じくする他者の人生に触れて共鳴させていただくことを、もっともっと今年はやっていこうとわたしは思う。

新しい時代のはじまりが、あなたの幸せな人生の幕開けになりますように。

Live your life !

応援お願い致します。