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その言葉、繊細につき。

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“人間がこんなに哀しいのに
主よ 海があまりに碧いのです”

クリスチャン作家の遠藤周作は、長崎市の海を見渡す場所にある「沈黙の碑」にこのような言葉を遺している。いま思えば、高校を卒業するまで雑誌以外の本なんて一冊も読んだことがなかった。そんなわたしを、活字の世界に引き込んだのは『深い河』という遠藤周作最後の長編小説でもあった。たぶん、それからだったと思う、わたしが言葉の響きに過剰なまでに敏感になったのは。

あなたの現実は、あなたが生み出す言葉を超えられない。夢を語るのが好きな人は、結局夢を夢で終わらせてしまう。超えてはいけないものを、人は夢として選ぶから当然と言えば当然のことかもしれない。けれども、一方で夢を現実にしている人もたくさんいる。そういう人たちは、夢よりも“体感”を言葉にするのが上手いからだとわたしは思う。なぜなら、体感を乗せた言葉には“振動数”が伴うからである。人は自分で発した言葉の振動数を、無限のエネルギーに変えることができるのだ。

いまを、“生きる”のか。
それとも、いまを、“生きている”のか。

どちらの表現も似ているようだけど、“生きる”とい言葉を発した瞬間、体に力が入るのが分かるはずである。そして、“生きている”という言葉を使うと、なぜか腹の力が緩んでいくことに気付くのではないだろうか。

“海があまりに碧いのです”
“海があまりにも碧いのです”
遠藤周作は上の表現を使っている。“も”の一文字が入ることで、それは海という存在をフィクションにしてしまうからだとわたしは解釈している。神が微笑む下でもその瞬間、海は絶望なまでに碧かったはずなのだ。

人は一日のうち、約4万回もセルフトークをしているらしい。まさに言葉は自分を映す鏡である。そして、目の前の人を照らしてあげる灯火でもあるのだ。体に不調がある人ほど、一日の終わりを感謝で締めくくることを多くの精神科医が勧めている。それはクスリを飲むことより何倍も効き目があるのだが、大人の事情で本当に必要としている人のところまでその事実が届いていない。

生まれて、ありがとう。
わたしは、時空を超えたすべての存在にそう伝えたい。

“生まれてきて、ありがとう”ではなく、とにかく“生まれて、ありがとう”なのだ。人は、意識を向けた先にあるものすべてに包まれる存在なのである。

包まれたい。そう思った時こそ、包むのだ。愛のある言葉で。

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