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人は排除されながら理想の地に辿り着く。

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子どもの頃から食べ物の好き嫌いがあるのは、生まれつきそれが体に合わないからだという説がある。わたしも子どもの頃からどうしても食べれない物が数多くある。たとえば、納豆、グリーンピース、マヨネーズ、ツナ、椎茸、イクラ、シナモンが入ったもの・・・。たしかに、豆系はいまでも食すと必ずお腹を壊すので、生まれ持った好き嫌いセンサーは体の正しいメカニズムとも言える。

異物を排除する機能は体内だけにとどまらない。それは、社会全体、いや地球全体にも組み込まれている自然の摂理でもある。飛び抜けて優秀な人間ほど旧態依然の企業やコミュニティにとって脅威なものはない。そのとき、組織は時間をかけてその“異物”を排除対象にするのか、それとも共存するに値するのかの判断を迫られる。

しかし、ほとんどの組織やコミュニティは排除を選ぶ。なぜなら、出る杭との共存はいずれやってくる“生まれ変わり”を意味するからである。

人が一生のうちでいちばん恐怖を感じるのは、母親の産道を通るときであると言われている。癒しに包まれた世界から、外界へはじき出される。歳を重ねても学びを深めても人はそう簡単には変われない。人は生まれ変わるのが怖いのだ。

誰しも卵の殻を内側から打ち破るほどの肉体的・精神的力を持っていない。だからこそ、勇気を持って他人とつながり、予測不可能な偶然性に賭けることでしか生きてるうちの生まれ変わりは不可能だとわたしは思う。

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先日、わたしは5ヶ月ぶりに沖縄県南城市に位置する斎場御嶽(せーふぁーうたき)という聖地を訪れた。わたしにとって沖縄という地は母親の胎内みたいな場所である。普段生活している横浜という外界から自らの力で産道を這い、この癒しの空間に足を運んだ気分とも言うべきか。

人は天と地の氣を体内に流すことで無限のエネルギーを蓄えることが可能である。天の氣は上から下へ背中側を通り、地の氣は下から上へお腹側を通って循環していく。沖縄の聖地に神は不在で、神は岩を伝って天から降りてくると前回の訪問時にガイドさんから教わった。だから、わたしは岩の間から漏れる光に背を委ね、そのときを静かに待った。

そして今回、わたしは“偉大なる声”を岩の隙間を静かに通り抜ける風を通して聴くことができたのだ。なぜ、人は神社や仏閣、聖なる地にこれほどまでに惹かれてしまうのか? 風と共に流れてきたその答えは単純明快なものだった。そして、“あなたもそのような存在になりなさい”とも解釈できる声を何度も思い出し、わたしはその晩ずっと至福のときを過ごすことになる。

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人の体が宇宙をフラクタル(自己相似的)に模した縮図であるように、我々は常に排除される立場でもありながら、自ら何かを排除していることも忘れてはいけない。不快や恐れを感じて遠ざけてしまったものほど、自分が向き合うべき扉であった可能性が高かったりもする。

引き寄せ信仰が広まったにも関わらず、多くの信者が妄信の果て彷徨い続けてしまう理由は単純だ。それは、抱いた理想の未来が“祈りの対象”としての価値がないからである。

人は祈りを捧げるときに手を合わせ、自分の正中線を祈りの対象に重ね合わせる。しかし、人の体を貫く正中線上にはいくつかの急所があり、たとえば人と面と向かうときには無意識に相手と正中線を合わせることを避けるのである。生まれつき、怒りをぶつけることでしか自分の存在証明ができない人は、相手の正中線を奪うことで快楽を得られる術を本能的に知っている。

どうしても欲しい、なりたい、つながりたい。そんな対象が見つかったときにはそっと手を合わせてみる。祈りは興味に勝る。だから届くのだ。

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