何もしない日 の話

1日なにもしない日があってもいい。

そんな風に何かしているときには思うんだけれど、故意的に何にもしない日を作るのと、急に何もしない日が訪れるのとはわけが違う。

そもそも“何もしない日”を定義するのは難しい。

“何もしない日”というのが、何も予定のない日というのなら、本を読んだり、勉強をしたり、ふらりと外を散歩して、「あれ、ちょっと前まで草木の間に伸びていた彼岸花がいつのまにか見当たらなくなった。」と季節の変化を感じたり(とっくのとうに彼岸花の季節は過ぎているのだけれど、ニューヨークには彼岸花がいないから、これは昨日、母とした電話で話していたことだ)
それは1日素晴らしい時間になりうる。

しかし、”何もしない日”がただ、スマホの画面と向き合うような1日となると、沈痛な1日になる。

この沈痛な1日をどうやり過ごせばいいのか21年間生きているのに未だに分からないでいる。

スマホから距離を置けばいいのだけれど、こういうときにこそそれが出来ない。

携帯依存というのは何にも増して恐ろしいものだとふと気づく。

孤独とは違う、この創造性も生産性も何もない時間は何とも私を虚しくさせる。

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