「美人」って書きたがるの何なん。もうええわ

なあ、「美人、美人」って何なん。いつまで書くんよ(岡山弁で書き出してみた)。

「美人妻がいるのに」「奥さんが美人なのに」「美しい妻がいながら」etc.

渡部建さんの不倫騒動は、女性への態度や接し方、不倫スポットなど、さまざまな問題点を含む内容でした。

その中で、私が一番気になったのは「オヤジジャーナル」(※プチ鹿島さん命名)を中心に、「佐々木希さんという美人妻がいるのに、この人はどうして不倫をするんだろう」といった文章を含む記事が生産され続けていることです。

例えばこういうの。

妻が佐々木希(32)でも浮気するのだから、付けるクスリはなさそうだ。

美貌の妻がいながらの不倫三昧。“世界のワタベ”は芸能史に残る大炎上、必至だ。
「こんなに美しい奥さんをほったらかしてね、他で現(うつつ)を抜かすなんてね、病気としか考えられないもん」と述べた。
渡部の同時多発的な不倫は、美貌の妻・佐々木希(32)がいるのになぜ? という疑問はさておき、
結婚は顔だけでするものではもちろんないですが、それでもつい、なぜあんなに美しく素敵な妻がいてわざわざ不倫を……と首をかしげずにはいられません。
妻が美人女優でも浮気するのか
誰もが認める15歳年下の美人女優と結婚し、2018年9月に第1子が誕生するなど順風満帆であり、スキャンダルとは無縁の存在と思われたアンジャッシュ・渡部建さんに女性問題が浮上しました。
誰もがうらやむ幸せを手にしているように見える渡部さんが、なぜこのようなスキャンダルを起こしてしまうのか。

こういった表現はけっこうな問題を含んでいます。

1.相手が美人でなければ浮気していい、と解釈させかねない表現

1つ目は「妻が美人でなければ浮気をする」「妻が美人でないなら浮気をするのも無理はない」とも解釈できる表現をしていること。

自身を不美人だと捉えている人、自己肯定感の低い人がこの手の文章を読むと、自分と重ね合わせて傷つく可能性があります。

もし過去に、パートナーとの間に浮気騒動があったなら、「私が美人じゃないから(夫が)浮気をしたんだ」と、つらい記憶が嫌な形で蘇る可能性も(ここでは読み手が妻である場合を想定しています)。

そして「妻が美人」と「夫が不倫する・しない」に、そもそも因果関係はありません。

この2つを結びつけるのが好きでたまらんわ、というようなメディアはあります。ただ、「この2点って別に関係ないよね」とうっすら気づいている人は一定数いるはず。

「読者の大半が男性だからええんよ」という思いもあるのかもしれません。でも、この表現は誰が読もうとポジティブな未来を創ることにはなりません。

2.美の基準は人それぞれだから、あえて美人と付ける意味はない

2つ目は外見に関する不要な描写を用いていること。「美人」かどうかなんて一人ひとりの主観に基づくもの。価値観や好みによるんです。

それなのに、その言葉をあえて使う必要、ありますか?

・美しさは多種多様
・美しさはそれぞれの中にある
・一人ひとり、自分が好きな“きれい”を追い求めればいい

このようなメッセージが世界各地で、影響力のある人々から発信されている時代に、特定の記事内で、特定の女優に「美人」とわざわざ付ける必要なんてあるんでしょうか。

ちなみに、男性の不倫報道でも「イケメン俳優」「イケメン芸人」などと、外見に関する表現が時々見られます。東出昌大さんや今回の渡部さんでも同様です。

美人とか美貌とか、外見に関する言及、もうええわ。いい加減、やめてもいいんじゃないでしょうか。

人の外見をとやかく言いたがる、よくわからん“ものさし”で美人か否かに分類したがる——そんな在り方に触れると、受け手として苦しい気持ちにもなります。

美しさもカッコよさも100人いれば100通りある。そんな多様性を無視した、非常に乱暴で雑な表現に思えるのです。

「とりあえず美人と付けておけばいい」「美人と付けておけば意外性が出るだろう」なのか、一周回って考えた上で美人という言葉を選んでいるのか不明ですが、「何なん(wなしの真顔)」としか感じられない。

このワンパターンな表現、そろそろ変えたらどうなん? と考えます。それだけで記事が及ぼす影響は変わるはずです。

「奥さんが美人でも浮気するなんて」「あんな美人な奥さんがいるのに浮気するなんて」といった、外見至上主義に囚われた声を減らすこともできると思うのです。

こういう発言からは、メディアが提示してきた美のモノサシと比較している様や自信のなさ、今の自分を認められずに苦しい思いを抱えている様子など、しんどさが垣間見える気がします。

外見に関する表現で生じる悲しみや傷つきが減ってほしい。そんな思いでいっぱいの夜です。


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