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悟り

悟り(enlightenment)とは、ブッダが到達した境地のことである。

もはや人としてのすべての苦悩、くびきから解き放たれ、それ以上何者にもなる必要がない状態、のことだと推測される。なにせ、その境地に達したことのない者が、その境地の正確な意味を語れるはずもない。

enlightenmentには「啓蒙」という意味もある。こちらは西洋の啓蒙思想でいう「啓蒙」=蒙(くら)きを啓(ひら)く、という義であり、自然の光(lumen naturale)を自ら用いて超自然的な偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促すという意味である。

東洋にあっては、瞑想の実践など、内観や自然的体験によって悟り(enlightenment)に至る道が説かれるのに対し、西洋にあっては、あくまで悟性や理性といった理知的活動によって啓蒙(enlightenment)に至ると考えるのが興味深い。

ベトナム戦争の時代、東洋と西洋の文化と思想が衝突した。現実面では、それは冷戦というアメリカ資本主義陣営とソ連社会主義陣営との代理戦争であったわけだが、ベトナム戦争において、このenlightenmentに至る二つの象徴的思想が、対照的に現れたと見ることもできる。

ベトナムにおける政治的難題をどうやったら解決できるのか。アメリカ/西洋文明における解決策として、それが象徴的に現れていたのは、ロバート・マクナマラ元国防長官の「キル・レシオ(kill ratio)」の概念であった。彼は徹底的な合理的作戦管理が勝利を生むとの考えから、キル・レシオ、つまり敵を一人殺すのに何万ドルかかるのか、を計算し、それを見える化・最適化しようとしたのである。戦争における殺人とそのコストの数値化、であった。しかし、それが世界中の非難を受け、ベトナム戦争自体が泥沼化していったのはご存知の通りである。

一方、ベトナムにおいては何が起きていたか。ベトナムでは、僧侶たちが抗議の焼身自殺を行なっていた。1963年のティック・クアン・ドックのカンボジア大使館前での衝撃的な焼身自殺が皮切りであった。彼は落ち着き払い、ガソリンをかけられ、炎に包まれた。彼は微動だにせず、声をあげることもなかった。まっすぐに背筋を伸ばし、人々の目の前で座ったまま亡くなっていたのである。

ベトナムにおいて悟りに至る道は、瞑想の実践であり、怖れを取り払う道をティック・クアン・ドック師は究極的な形で示した。誰もが彼のようになることはできないが、人間があらゆる苦悩から解き放たれることを目指すのであれば、東洋的な思想には大いに学ぶところがある。

一方、西洋的な理知的活動において啓蒙=光のある状態に至る道として、「哲学」は現代において圧倒的に重要であると考えている。そのような啓蒙の哲学者の代表として、新実在論のマルクス・ガブリエルを挙げたい。

彼の新著『「私」は脳ではない:21世紀のための精神の哲学』(講談社)は、高らかなる自由なる「人間」宣言であり、現代のフランス革命のようなものだと私は考えている。なぜなら、現代社会は「神経中心主義」とでもいうべき、人工知能や脳を神とする新しい宗教に陥っているからだ。人間とは物質であり、脳であり、人工知能と変わることはない、というのが現代人を覆う大きな闇なのではないだろうか。

そこで、私は、私の「人間宣言」を高らかに謳いあげたいと思う。

「そうだ、劇団をつくろう!」というのが私のenlightenmentであり、人間宣言である。


ということで、「劇団まちけん」始まります(続く)。


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