見出し画像

聴き、話す

対話(ダイアローグ)とは、単純に言えば、聴いて、話すことである。

ダイアローグでは「聴く」と「話す」を分ける。
いっぺんにはやらない。
丁寧に聴き、丁寧に話す。

先日、ある紹介患者さんを診たときのことである。
この方の病歴は複雑で、家庭医としての「対話力」が問われるケースと考え、外来の最後にまわってもらった。

その方を12:10に呼び入れ、終わったのは13:30であった。

80分の診療時間うち、60分は患者さんが長い病歴を語っていたように思う。

私はそれを一言一句聞き漏らすまいと全身全霊で聴いた。
ほとんど口を挟まずに。

ダイアローグでは、評価をしない。
あるいは評価的な視点で相手に語るのではなく、自分が相手の立場だったらどう思うか、とか、感想に近いことを述べる。

私はそのとき、何を語ったのか。

単純に私はその方の経験されてきた、とてつもない物語に敬意を表し、その努力をたたえ、あなたのような立場だったらそう感じるのも理解できます、と述べた。
これは専門家の視点というよりは、一人の人間として、自分には全く想像がつかないようなとてつもない経験をし、語ってくれた相手にただただ、感謝と尊敬の言葉を表したのである。

その後、家庭医として少し医学的な解釈も伝えた。

そのとき、その方は涙を目に浮かべていた。

決してその場の対話だけで、その方の症状が快方には向かわなかったとしても、その方が満足されたとしたら、それは対話によって尊厳ある人として扱われたということだったかもしれない。

専門家は、人を次第に「患者」として、つまり「病名を持った人」として扱い、いつしか病名抜きにはその人が見られなくなるのである。

しかし、それは本来の人間の姿であろうか。
人は誰しも「何病の人」としてではなく、「何々さん」という名前で、つまりその個人として呼ばれたり、扱われたりしたいのではないだろうか。

だから、私は対話モードで患者さんの話を聴くとき、あえて病名や医学的な視点をはずしてみることがある。そうすると、単純に、長く苦悩に満ちた人生を送ってきた患者さんの圧倒的な経験に畏敬の念を抱くのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?