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ローゼンバーグ博士の苦悩

マーシャル・ローゼンバーグの非暴力コミュニケーション(NVC: Non-violent communication)に魅せられている。

人は何か大きな仕事を成し遂げるときに、それを突き動かす原点として、一種の「苦悩」をかかえているものだと思う。英語で言えばサファリング(suffering)である。彼の苦悩の始まりは、デトロイトで過ごした少年時代にあった。ユダヤ系だった彼は、転校先で「カイク(ユダヤ系の蔑称)か?」と陰口を言われ、同級生に暴行を受ける。ただ、ユダヤ人だったということだけで。

そこから、彼の生涯のテーマが決まった。「人はどうやったら価値観の違いと対立を乗り越え、共感を生むコミュニケーションをとれるのか」と。彼が目指したのは、徹底的な「非暴力」の言葉づかい、そして相手の言葉の背景にある感情と、それを生み出す価値観(ニーズ)の理解だ。

少し前から、これを学び始め、自分の中でも変化が起きていることを実感している。

相手が発する言葉と、それに伴う感情と、その感情を生み出す価値観(ニーズ)を分けて考える。そして、自分の発する言葉づかいも丁寧に、自分を見つめ直しながら、マインドフルに言葉を繰り出していく。相手の言葉を額面通りに受け取るのではなく、その感情に注意を向ける。その感情を生み出す相手の価値観と、満たされていないニーズは何かに最大限の注意を向ける。これは「共感」の定義そのものである。

共感(empathy)とは、一般に思われているような、相手に同情(sympathy)を感じることではない。ただ単に相手に寄り添うことでもない。相手の感情を生み出す根っことなっている、相手の「満たされていないニーズ」を想像力を使って、感じ取ろうとし続けることなのではないか。相手の感じ方や感情を100%、追体験することはほぼ不可能である。もし「私はあなたに共感できます。あなたの気持ちを100%理解できます」という人がいたら、とても嘘くさい。なぜなら、エマニュエル・レヴィナスが言うように、「他者とは常に自分の想像を超える絶対的な存在」であるからだ。

相手に共感しようとするとき、価値観が異なると、とても苦しい。基本的には共感できないから。考え方が違う。感じ方が違う。それでも、相手と対話(ダイアローグ)を続けながら、相手の価値観とニーズに漸近していくことができる。そのとき、自分の価値観も変わる可能性がある。自分が考えていたことは正しくないかもしれないという不確実性に身をゆだねる覚悟が必要である。だから苦しい。共感とは苦しいものなのである。

非暴力コミュニケーションは、単なるコミュニケーションスキルではない。むしろ、自分の感情や価値観を見つめ直していくマインドフルな姿勢の探求、そして自分の価値観や、相手との関係性が変容するようなダイアローグの実践そのものであると僕は考えている。

おそらく、ローゼンバーグは世界平和を祈っていたと思う。この非暴力コミュニケーションを世界に広げることで、人と人の間のあらゆる対立を克服できるのではないかと。

彼の祈りに思いを馳せながら、もっと深く学び、実践してみよう。非暴力という、この魅力的なアプローチについて。

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